輪るピングドラム第22駅「美しい棺」感想

今、まさに会いに行きます。の話。(電車の吊り広告のやつ)

 

これね、市川拓司さんの『いま、会いにゆきます』を思い出してしまうよね。(というかそれを擦ってるよね?)

あれは私がかなり好きな作品の一つで、しっとりと音もなく降るような雨の中で二人の人間が惹かれ合って愛し合っていく、お互いを選びあっていくさまがとても美しいと思うのだよね。

 

ピングドラムに話を戻すと、ダブルHのふたりが陽毬に会いに来ます。マフラーのお礼だ、と新曲のアルバムを携えて。

この場面が最後に伏線として繋がってくるんですよね。誰がこれを予想できたでしょう。。まあ「陽毬ちゃんが一番大切にしていた言葉をタイトルにしたんです」は最終話で初めて出るから、予想できるものではないけど。

これよく見るとちゃんと「運命の果実を」という言葉が見えるのよ。だからピングドラムって1周目が0周目なんだと思う。Javaの配列みたい(Java知らんけど)。

 

で、その陽毬は何をしているかというと、組織のアジトに籠った冠葉の所にいて、もう私のために頑張らなくていいから危ないことはやめてほしい、と語りかけているがまったく冠葉は聞く耳を持たないのですね。冠葉は池袋駅近くの隠し部屋に出かけてしまい、それを追った陽毬はなぜかサンシャイン水族館に迷い込んでしまいます。

神様、お願いです。私が見て見ぬふりをして冠ちゃんから奪ったものを、冠ちゃんに返してあげてください。どうか、冠ちゃんを助けてあげて。私が冠ちゃんからもらった全てを、命を、返しますから。

陽毬は冠葉から貰った命で生を繋いでいましたが、冠葉に返したいと願うことでそれを手放し、ここで倒れます。こういう感じでリンゴがどのタイミングでどう動いているのか図解すると面白いというか、分かりが良くなるんだよね。多分。

この流れって陽毬の側から見ると勿論しんどいんだけど、冠葉の側から見るとどうだろう、と考えると、こちら側もまたしんどいだろうなあ。と思う。冠葉としては自分の愛する女性である陽毬が笑って生きていることが自分の人生における最優先事項で、それの実現のためなら何を投げ出しても構わないし、逆にそれが担保されない世界は耐えられないのだよね。だから自分の命を半分与えているし、文字通り血を流しているわけよ。だから、陽毬にリンゴを返却されるのは、冠葉にとってはとてもつらいことだよね。。いや、自分の命なんていらないっつってんじゃん(泣)みたいな。

勿論冠葉に命を削られて守られるのは陽毬の本意ではないから、愛っていうのはなんというか、時に押しつけがましく暴力的なものになり得るのかもしれない。(それは分かってるけど愛したいのです、というわがまま感もまた愛の構成要素だと私は思っている)

 

そして場面変わって、ゆりが苹果を呼び出して日記の片割れを返しています。もう自分達には必要がない、あなたの方が活用できるもので本来あなたのものだから、みたいなことを言っていた(と小説版に書いてあった)記憶がある。

ここの回想で出る会話が、輪るピングドラムという作品の全話を通して一番好きです。

「ゆり、やっと分かったよ」

「何が?」

「どうして僕たちだけがこの世界に残されたか、が」

「教えて」

「君と僕は、予め失われた子どもだった。でも、世界中のほとんどの子どもたちは僕たちと同じだよ。だから、たった一度でもよかった。誰かの愛しているっていう言葉が、僕たちには必要だったんだ」

これね、14歳ではじめて輪るピングドラムという作品に出合った時はまったく感情の網にかからず抜けていった言葉なのですが、10年越しで見るとこれこそが輪るピングドラムという作品の核だと思うし、私がこの作品に心を寄せる理由なのだと思う。

陽毬や冠葉にも通じる話だけど、彼らは実両親との関係に恵まれていなくて、だけど誰かに愛されて心から必要とされ、その誰かを自分も愛し、家族になることで、生きていられたわけじゃん。それって大なり小なり皆ある話だと思うんだよね。

誰しもあらかじめ何かを失っていて、その欠落すなわち罰を抱えて生きていくために、それを分け合ってくれる誰かが必要だと思う。その誰かがいることが、本人にとって生きる理由になる。だから、「僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ」という言葉がキーメッセージとして一つあるのだね。

輪るピングドラムという作品の全体を見ると、ざっくり上記のようなことをこの会話は言っていると私は解釈しているし、私はこの数か月間、これを折に触れて思い出していたな。

 

最後に、冠葉と真砂子の場面。(この回ってなんていうか、殊更に濃いなぁと思うのは私だけ?)

この台詞が好きです。

「お願い、言って。わたくしはあなたの大切な妹だと、一度だけ昔みたいに言って。そうしたらわたくし、あなたと一緒に未来永劫呪われてもいいから」

この「あなたと一緒に未来永劫呪われてもいいから」っていう言葉、良いよね。僕の愛も君の罰も…に少し通じるものがある。気がする。

 

次回は第23話。いよいよ最終回秒読み。。

輪るピングドラム第21駅「僕たちが選ぶ運命のドア」感想

高倉家解散、の巻。

 

「それにしても、あの記者今度見かけたらただじゃおかないんだから!」

高倉ハウス縁側で陽毬と並んでお菓子をつまみながら、高倉兄妹の身辺を嗅ぎまわる週刊誌記者に憤る苹果。ではなく、この台詞と並行して庭の鉢植えに栄養剤を差し込むサンちゃんに注目してほしい。

この鉢植えが何か(愛?)のメタファーになっていて、この後最終回に至るまで度々登場します。

「あのね、苹果ちゃん。うちはミカちゃんハウスなんだよ」

冠葉と晶馬が陽毬のために家の壁を塗り変え、ベッドを用意したエピソードが語られます。これEp.24Bパートでもう一度出てきますね。「うちの壁に色を塗ろうと言いだしたのは冠葉だった――」。ちなみに小説版だと、晶馬はこの出来事があってから、冠葉を兄と呼ぶことに抵抗がなくなった、という言葉が(24話にあたる部分に)追加されていて味わい深い。

 

「リナちゃん」から眞悧先生の診察室のシーンは、突然のホラーで慄きますね。ピングドラムこの辺りからホラーみが強くなる。

元々1話あたりから、陽毬の死体は死体らしく表現されていて、ホラーの片鱗(死体イコールホラーではないが)は出ているのだと思う。

 

「ようやく全てを思い出したようね。そう、わたくしと冠葉は血の繋がった本当の兄妹。あの時、冠葉はわたくしとマリオさんのために、自分の人生のすべてを捨てて、父とあそこに残ったの。」

真砂子の衝撃告白。これ何度か伏線は小出しにされてましたけどね。。

冠葉と晶馬が殴り合う中、家で一人待つ陽毬。夏芽家での会話や家の中の写真を思い起こしながら、自分のために冠葉がずっと身を犠牲にしていた(そして自分がそれを見ていたが、敢えて意識していなかった)ことを実感する。そして、今度は自分が冠葉を救わなければいけないということも。

「これで俺たちの関係も終わりだ。長すぎたんだ、何もかも。」

組織との関係が明るみになり、晶馬は冠葉を糾弾する。しかし悲しいことに、冠葉が組織と繋がらないことには、陽毬の治療費が用意できないのも事実なのですよね(それをしてもなお余命僅かというのがまたやるせないが)。

そして冠葉は高倉家を去り、晶馬は陽毬に高倉家の解散を宣言する。この場面、切ないなあ。全話通して一番「痛い」かもしれない。

「私、不幸なんかじゃないよ。だから、」

ここで蛇口から水が垂れるのが良いですよね。(敢えて説明するのも野暮だけど)ここで陽毬が涙を流している描写はないが、この水滴が陽毬の気持ちを表しているのだよね。

しかしやはり陽毬はもう高倉家という共同体は自分がここにしがみつこうと、諦めようと、既に壊れてしまったのだと思い直し、高倉家を去るのですよ。で、マフラーを返すんですね。「これで晶ちゃんと私は他人だよ」って。

そんなことあるわけないのになあ。

そんなことあるわけない、と思わない?

だって陽毬が陽毬であるのは、高倉陽毬であったからで、それはマフラーを誰が持ってるかなんかで変わったりしないよ。絶対に。と思う。勿論あのマフラーを明示的に晶馬に返すというところには大きな意味があったけど。

あのマフラーを晶馬に返したことで陽毬は晶馬との繋がり、というよりあの場面ではむしろ晶馬への恋心、を断ち切って、自分を守ろうとして命を削っている、もう一人の家族である、冠葉を救いに行くのですよね。

ここで陽毬が女の子から少女になっている(少女から女性になっている?、とにかく精神的に一段階ステップ上がっている)のがぐっとくる。

 

輪るピングドラム第20話「選んでくれてありがとう」感想

陽毬が高倉陽毬になった話。

 

「思い出したよ。晶ちゃんが、私の運命の人」

夏目真砂子の襲撃から一夜明けて、何事もなかったかのような場面を取り戻した高倉家。しかし陽毬が「晶ちゃんのお味噌汁は、お母さんと同じ味がするね」と穏やかに笑うのに対し、晶馬はいつになく厳しい冷たい返しをするのでした。

高倉剣山・千江美に対して一番厳しい態度を取るのは晶馬、なんだよね。これはEp.19~で判明していくように、実際のところ高倉夫妻の実子であったのは晶馬だけだったので、晶馬は実両親に対しての気持ちである分より強く許しがたかった、というところがあるのかもしれない。

 

話変わって、眞悧先生の診察室。この場面ね、好きなんですよね。示唆的。

「さて、今日はある恋のお話です。追えば逃げ、逃げれば終われる。あれほどうまくいっていたのにある日突然そっけない。逃げられた!さて、君ならどうする?」

「私だったら、追いかけない。」

「なぜ?」

「疲れちゃうし。」

「つまり君は、逃げる役目しかやらないと宣言するわけだ。
(中略)両方が逃げるなら、それはお互いが、私からは近付きませんよと相手に言うのと同じ、ということさ。
(中略)その恋は実らない。」

「それでいいよ。私、恋なんかしないもん。」

相手から逃げられて果実をもらえないのであれば初めから追いかけない、と静かに拒絶する陽毬。わかるなあ。

ただ眞悧先生の言っていることも真理ではあって、自分が追わないことには恋はやはり実らないと思う。

「君は果実を手に入れたいわけだ。キスをするだけじゃ、ダメなんだね。」

「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実がないのに、キスばかりしていると、私は空っぽになっちゃう。
(中略)空っぽになったら、ポイされるんだよ。
(中略)そうなっちゃったら、心が凍り付いて、息もできなくなっちゃう。」

陽毬がそう語るのは勿論、自分がかつて消費され、捨てられ、凍ってしまいそうになったから。刹那的な愛(愛ではないか)を与えられ、それが目減りした時にあっさりと捨てられた時の悲しさや惨めさを体で記憶しているから、だね。

陽毬は基本天真爛漫な雰囲気だが、こうして随所に見せる冷たさというか達観した感じが、どうしようもなく悲しくて好きだ。

 

「陽毬は、僕が家族に選んだんだ。」

 

季節に合わない服装、室内履きと思しきスリッパ。晶馬に見つけられた時の陽毬は明らかに母親からもう見捨てられていることが分かる。本人もどこかでそれをはっきりと分かっていて、それでも母親を待つ以外できなかったのだね。愛されなくなることの恐怖から一度は晶馬の関心を拒絶する。

「私の人生に、果実なんてないから。」(最も好きな台詞の一つ)

が、後にサンちゃんと名付けた子猫を二人で育むことを通して、徐々に晶馬に心を寄せていく。

温かな日々が続くと思われたが、サンちゃんがゴミ収集車に回収されたことを機にそれは終わる。陽毬は心の支えになるようなものを一つ失ってしまって、というより、やはり選ばれない者は死ぬのだということを強く実感してしまって、自分もまた子どもブロイラーに行ってしまったのだろうね。

「初めて声をかけてくれた時、本当はすごくうれしかった。あれからね、私は晶ちゃんを待つことにしたんだ。ママは帰ってこなかったけど、私は晶ちゃんを待つことができたから、寂しくなかったよ。待つってことは、つらくないことだってはじめて思ったんだ。」

「待つってことは、つらくないことだって」の部分ってこの後、Ep.24Bパートで冠葉が陽毬のベッドについて振り返る場面と繋がっていると思うのよ。たぶん冠葉と晶馬が外に出て陽毬がそれを待つ、ということが比較的多くあったはずで、そんな風に誰かを待つこと、待つ場所があること、って陽毬にとっては決して当たり前ではなかったのだよね。

 

陽毬の「見つけてくれてありがとう」という気持ちに似たものを自分も強く感じているなあ。誰から捨てられたわけでもないのだけど。

 

晶馬は陽毬を高倉家に巻き込んで罰を負わせていることを強く後悔しているが、陽毬は多分それも含めて選択しているのだよ。愛を分け合いたい、と共に罰であっても分け合いたい、とはっきり言っているからね。罰を負わせる側に立っている時、しばしばそのことを意識できないがちだけど、一緒にいることを選択しているということはやっぱりそういうことだと(少なくとも私は)思う。罰であっても分けてほしい。(と共に、相手を自分の人生に引き入れることは、自分の罰につき合わせることもあり得るんだよね、という負い目も感じていて、その負い目を押してでも一緒にいてほしいと願ってしまうエゴが愛なんだと思う。)

輪るピングドラム第19駅「私の運命の人」感想

いよいよ物語が核心に近づいている感じがするよね、このあたりから。

(実際のところ核心は第1駅の時点で既に示されているのだけど)

 

冒頭先ず破局した田蕗夫妻と、温かな雰囲気の高倉兄妹+苹果の対比。田蕗とゆりは自分たちの欠損を埋めようと家族の形を作っていたが、やっぱりダメでした、という話でした。うーん。両者とも不誠実な動機で家族になっていたんではなかったというところがまたしんどいね。

高倉家はたぶんこれが最後の団欒シーン。晶苹(というか苹→晶)もしれっと挿し込まれていい雰囲気ですね。しかし陽毬は晶馬の隣の自分の居場所が苹果にとって代わられつつあることに寂しさを感じてしまうのです。

 

次が陽毬と眞悧先生の診察室の場面。ここね、かなり好き。

「私は死ぬのね」

「死なないよ」

「嘘」

「どんな言葉を言って欲しいのかな」

はっとする陽毬。わかる。わかるなあ。。自分もこういうコミュニケーションをしてしまうことがある(陽毬側も眞悧側も)。甘えているというか、自分でも何と言ってほしいのかわかっているような分かっていないような、でも自分では処理しきれなくてやんわりと他人に汲み取ってもらいたいようなずるい気持ち。

「君は自分をどうしたいの?」

「私は、このままでいたいの。冠ちゃんと、晶ちゃんと、私で。ずっとこのまま」

「それで良いの?自分の本当の気持ちに気がつくと、大切なものが壊れてしまう。君はそう思っている」

陽毬自身この時点でうまく言語化できていない(していない)が、陽毬は高倉3兄妹というユニットで冠葉の愛を受け、初恋の相手である晶馬への思いをずっと胸に秘めながら家族として傍で過ごす状態が居心地よかったのだよね。それが苹果という外部からの侵入者によってバランスが崩れてしまったのが怖いのだよね。わかるなあ。

 

「嘘で固めたものに、真実なんて生まれやしない!」

「目を背けてはダメ。あなたは誰。なぜここにいるの。何をしたいの」

真砂子先生の名言シリーズ。二言目は陽毬に、おまえが大事に抱えているものは家族愛なんかじゃないんだぞと突き付ける目的で発せられた言葉ですが、なんか会社の1on1で出てきそうですね。

思い出し球を構えて更に陽毬を追い詰める真砂子。陽毬が行き止まりの壁に当たって振り返り真砂子を見るカットに注目してほしい。これは(すぐ後のシーンでも説明されるけど)子どもブロイラーを明らかに示唆しているのだよね。陽毬の過去であり核であり陽毬の至った場所である子どもブロイラーの、あの巨大なプロペラと、抵抗する力もなく砕かれようとする無力で小さな女の子の姿。

子どもブロイラーってちょっと怖いけど、あそこに来てしまった子どもたちにとって、透明になることって多分もはや怖くはないんだよね。子どもブロイラーにいる時点でもう救いはないというか、彼ら主観で生きている意味やモチベーションってもう失っていると思うのだよね。もう自分の居場所が愛の世界にはないのだから。田蕗も陽毬もいよいよ自分が透明にされんとしている時はむしろ透明になる側に倒れていて「いや、どうせ自分にはもう価値も居場所もないのだから、透明になるしかないよ」みたいな態度になっている。。これは何となくすごくわかる。

透明になってしまおうとするとき、「行かないで、行っちゃダメだ」と手を引いてくれる人がいたから、田蕗も陽毬も生の世界に踏みとどまることができたんだろうなあと、強くそう思う。

Ep.24の「だからたった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だったんだ」「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、愛された子どもはきっと幸せを見つけられる。私たちはそれを知るために、世界に残されたのね」も同じことをメッセージングしているね。

「うちに帰るんだよ、僕と一緒に。そう、僕たちは家族になるんだ」

「どうやって?私はあなたの家族じゃないよ」

「平気さ。僕らには魔法がある。運命の果実を、一緒に食べよう」

「選んでくれてありがとう」

ここ最後に子どもの声に晶馬の声が被っていく演出が(ベタだけど)鳥肌立つ。これなのよ。陽毬思いだしちゃった編。陽毬が運命の果実を分け合った相手は晶馬だったのでした。。

これ初めて見た時どんな気持ちになったのかもう忘れちゃったけど(大変惜しい)、多分同じ人間だから今の私と同じようにものすごく鳥肌立っていたんだろうなあと思う。

このガラスの降り注ぐ画面、Ep.24のBパートを彷彿とさせるよね(勿論順序的にはこちらが先になるけど)。あの場所で陽毬はやりとりした果実のリセットをしていたので、自分が果実を受け取った時のやり直しをしていたということになるのかな。

陽毬は晶馬と果実を分け合うことで高倉家の人間になり、なので陽毬の運命の人は晶馬で、冠葉ではなくて、でも冠葉の愛を家族の当たり前のものとして受けていて高倉家の人間として生きていたのです、という衝撃の真実が曝されてしまったのでした。

 

「ずっと一人だと思っていた。あの日、あの氷の世界で、私は運命と出会ったのだ」

エンドカードと台詞まで良い。これ一言一句漏らさず全部、好き。私は運命と出会ったのだ。ってね。

 

Ep.24、20、9の順で好きだ、とよく言っていたが、この回も良いよなあ。夏芽HDのギャグ回終わってからEp.18、19、20…と一気に鬱展開になっていくこの流れがもう、凄いとしか言えない。。

 

次回は第20駅。

輪るピングドラム第18駅「だから私のためにいてほしい」感想

知られざる田蕗先生の過去。

 

歌手である田蕗の母親は音楽の才能に価値を認めており(これを愛とは書きたくない)、著名な作曲家の田蕗父と結婚し、田蕗を生んだ。田蕗はピアノの才能によって母親の愛を受けていた。

しかし、田蕗父の才能が何らかの形で霞んだため別れ(ゆりの両親の男女逆バージョンですね)、別の作曲家と再婚し田蕗弟が生まれた。生まれた田蕗弟は(まだ田蕗以外の誰も気づいていなかったが)天才だった。弟が成長し自分を凌駕する才能を発揮した時に母親が自分から興味を失うことを恐れた田蕗は自ら指を損傷し、ピアノ人生を絶った。発展途上のまま負けないまま終わることで母の愛を失わないことを願って。

その日、鳥籠が錆びた。だから、鳥は外へ出られなくなったんだ。

しかし、母親はもはや音楽的才能を発揮する事がなくなった田蕗への興味を失い、田蕗は母からの愛(愛か?)を永遠に失い、いらない子どもになった。

 

前半戦超ざっくりまとめるとこんな感じですかね。

 

輪るピングドラムで好きな話を挙げてと言われたら、Ep.9(陽毬過去編、空の孔分室の回)、Ep.13(最後の「私は運命って言葉が好き」のシーンが好き)、Ep.20(陽毬過去編、子どもブロイラーの回)、Ep.24、あたりをぱっと出すのですが、しんどい回を挙げてと言われたらEp.18が入るのかもしれない。

何がどうしんどい、とか、書くのもまた瘡蓋を剥がすような心持ちになるのだけど。私はたぶん、母親にだいぶ愛されていると思うんだが、ある面で田蕗母と私の母の振る舞いは(強さの違いは勿論あれど)似た所があって、私はそれがなんというか苦しかった(現在完了進行形)。10年前にはあまり田蕗とゆりに注目していなかったのだけど(上記のつらみをあまり自覚しておらず、あとはひたすら高倉兄妹のリンゴのやり取りに興味があった)、そういうわけで自分に一番近いのは田蕗かもしれない。次点ゆり。

だから、最近最終回を改めて見た時に、田蕗とゆりが見つけた答えが、すなわち私の目指すものだ、と思ったのだよね。

 

母親からの関心を失った田蕗は子どもブロイラーで透明な子どもにされかかってしまう。と、そこに桃果が現れる。

「あなたを必要としている人のもとへ、帰るの」

(中略)

「良いんだ、これで僕は自由になれる。ピアノからも、お母さんからも」

「だったら、私のために生きて。(中略)さあ、一緒に帰ろう」

自分はもうピアノが弾ける子どもという要素を失ったから価値がないのである、と拒否する田蕗に桃果は「そんなの関係ない。わたしが聴いたのは、あなたの心だもの」と食い下がる。やや脈絡ない気がするが、これ愛の必要条件ですよね。

最終的には、田蕗は桃果と共に子どもブロイラーを出ます。桃果に選ばれ、望まれ、生の世界に帰ったのですね。

わかるなあ。

 

田蕗にとって桃果はこのような背景を持った人で、彼女が彼の生きる意味だったというのは本当にそうだと思うのです。生きる意味を他人に委ねるって自分にも相手にもあまり良くないのでは、と思うけど、"私にとっては"やはり、最終的に自分を生の世界に繋ぎとめるのは自分にとって大切な他者なのだよな。そうなると、桃果を奪った高倉両親、の子どもたちに恨みを向けてしまう気持ちは理解できないでもない。

「嫌だ、絶対離さない」「俺は、お前のために生きたいんだ」

が、しかし、身を賭して陽毬を救おうとする冠葉を見て、それがかつての桃果と自分の姿であったことに気付くんですよね。ここの田蕗の表情の変化が良い。

 

「私は違うよ。私は晶馬くんたちのこと、嫌いになったりしない。悲しいことも、辛いことも、無駄だなんて思わない。それが運命なら、きっと意味がある。私は受け入れて強くなるよ。だから、」

最後のこれ、「だから、」の後すぐにサブタイトルが表示されて繋がるのが良い。この「だから私のためにいてほしい」という言葉は、かつて桃果から田蕗に向けられた言葉で、そして今苹果から高倉兄妹に向けられた言葉でもあるのです。(あとは冠葉→陽毬も勿論そうだよね。)この繋がりの見せ方というか演出がもう、鳥肌立つ。

「だから私のためにいてほしい」ってさ、これは愛だよね。常々思うのだけど死ぬのって本人的にはソリューションとして機能するので、私は人が死にたいと言っていたら、「なるほどね」と思ってしまうのだけど、その人の生のつらみを承知した上でそれでもその人に生きていてくれることを望むとしたら、そこに在るのは愛だよね。だから愛って送り手のエゴなんだよね。

エゴなんだけど、それは分かっているんだけど、それでもあなたにいてほしい、罰を抱えているのであれば分けてほしい、みたいな。この自分の中で何よりも強い気持ちが愛なんだよね。

 

まだEp.18なのに最終回みたいな感想を書いてしまった。

 

次回は第19駅。

輪るピングドラム第17駅「許されざる者」感想

陽毬ちゃんかわいい回。作画の良さなら1番では?

 

病室でたこ焼きを焼く高倉兄妹。いや病室、広くね…?個室とはいえ応接セットとかないでしょ。いや、これがスタンダードなの…?

 

お礼に、とマフラーを編む陽毬。「ないしょ」と笑う顔が本当にかわいいですね。。兄ふたりは相手が自分達とは知らず、やきもきしてしまうわけですが。こういうのもまた、良くないですか?ねえ。

薬があれば安心、と思っている3人に対し、桃果はピングドラムを手に入れろ、と迫ります。

「このままピングドラムを放置すれば、お前たち家族の誰かが、罰を受けることになるだろう。」

それは確かに、そうなんですよね。眞悧先生がはっきりと「この薬はキス」と宣言しているのですが、ピングドラムの世界でキスは人を救わないので。では何が救うの?というと、果実なんですよ。

「俺じゃ、ダメなんだろ。もう、俺には陽毬を救うことはできないんだろう」

「お前にはできる。妾にはそれが分かる。なぜならピングドラムとは、それは、お前の…」

「俺には、無理だ…」

はいこれ、絵面が性存戦略。

という話はさておいて、その果実を、冠葉が陽毬に与えられるはずなのよ、ということを示唆しているのがこの会話なんだよね(たぶん)。なぜならピングドラムとは、それはお前の…何かというと、(ピングドラムの指す範囲の解釈にもよるが)狭い範囲で解釈した場合、それって元は冠葉の命だったわけですよ。

冠葉が晶馬と共に生きることを選び、自ら晶馬に分け与え(そして晶馬もまた受け取ることを選択した)その命(&それを分け合う行為の背景にある愛)がピングドラムであり、果実と呼ばれているものなので、当然それをもう一度やればいいわけです。でも、それをやるためには、もう一度きちんと色々なものに目を向けなければいけないのだよね。過去も未来もきちんと見据えて、このような状況ですが私はあなたと生を分け合いたいのです、というのが正しい形であって、それができていない今は当然冠葉が陽毬を救う事はできないのだよ。

 

陽毬の突然の外出。これ理由が兄に編んだマフラーの色が好みじゃないと言われたから毛糸を買いに行ったのだ、というのが悲しい。愛のすれ違いだなぁ。

いつもしてもらってばかりだから、たまには私が返したいのだ、という健気発言がなんというか切ないんだよ。兄にしてみたら、陽毬が生きていてくれるだけでいいのだよね。生きて高倉陽毬でいてくれることを選択してくれていることそのものが、陽毬からのGive backだから。でも妹にはそれは分からないし、分かったところで納得できるかは不明。現実にもそういうことって、まああるよね。

 

次回は第18駅。

輪るピングドラム第16駅「死なない男」感想

イカレちまった回。

 

真砂子お姉様の過去、解禁です。リズム感良く祖父を殺し続ける夢オチの日々。暗雲立ち込める後半戦の中の癒しパートですね。

ちなみに、どこかのファンブック情報だったと思うのですが、輪るピングドラムは当初3クール構成で構想されていたらしく、2クールになった時に削られたエピソードは大半夏芽家関連だったとか。確かに、マリオも帽子ホルダーですがほとんどまったく触れられていないですね。

とはいえ3クールだと人に薦めるのも結構躊躇するので正直2クールがちょうど良かった。

 

「呪われるなら一緒に呪われてやる。それが俺たちを結ぶ絆だ。」

これnearly equal「僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ」にならない?あくまでnearlyだけど。冠葉と真砂子は元々は家族だから、一緒に背負うよってことですよね。

なぜ冠葉がここに?というのはこのタイミングではまだ明かされていないんでしたっけ。。ただ、勘のいい人はここで気付くのかもしれないね。真砂子と冠葉、目元が似ているし。(Ep.10あたりでもかなり強調されていたけど。)

 

夏芽HD本社、六本木感あってよいですね。学生時代なんやかんやあの界隈には用があったので、思い出深い。

といってもパーリーピーポーしてたわけでなく、バイトしてたんですよ。赤坂見附青山一丁目のちょうど中間にあるオフィスで英語教育関連のバイトしたり、乃木坂にある中華料理店でホールやってみたり。学生時代、自分があまりアクティブでないぶん、行き遭った機会には必ず飛び込もう、というポリシーでいたのでそういうあまり自分らしくない経験をすることもできたのは自分偉かったな。ホールの経験はその後コールセンターでバイトする時に大変役に立った。でも店長(親と同い年)がいきなり体を触ったりしてきたのがちょっとだけ怖かった思い出w

あと、六本木あたりのエアビーでクリスマスパーティしたこともあったなー。懐かしい。。テキーラ飲みながらジェンガやったりね。学生なんだから勉強しなさいよって話だけど、あんな退廃的な行いはもうできないので、貴重な思い出!

 

話に戻ると、これなんかそこはかとなく感じられるのは真砂子・マリオの父親って口だけ星人だなー、と。自分のComfort Zoneから出ず手紙というなんの痛みも伴わないやり方で子供の気持ちを繋ぎ止めている。せこいなぁと少し思う。。言い訳がましさを感じてしまうのよ。

って、書いてて思ったけど、自分も言い訳ばっかりでしたわ。なんか、あれよね。24歳になって思うんだが、「輪るピングドラム」の脇役の、真っ直ぐ人を愛してそれを人に伝えるということができないキャラクターほど、自分と似ていたね。人を愛するというのは結構勇気とエネルギー要るんだよね。だからこそ誰かを愛するということは尊く、得難く、幸せなことなんだと思っている。

 

この回全体としてはあまり重たくなく軽く笑って見られる感じなのですが(自分にとっては)、最後フグ毒にやられた真砂子の夢が冠葉の行く末を示唆していますよね。この時点でわかっている情報はこんな感じでしたっけ。。(話が後半になるにつれて何の情報がどこで出たのかよく分からなくなってくる)

  • 冠葉は陽毬の治療費のためによからぬ組織と関わっている。その組織と、真砂子&冠葉は過去に関係があった。(Ep.11、15)

よからぬ組織=16年前の事件の首謀組織というのが明らかになっているのかはさておき(根拠は弱いけど察せられるみたいな状態かも)、あぁ冠葉危ないんだな、ということがここでなんとなく示されていますね。。冠葉先生の受難は続く。

 

次回は第17駅。