輪るピングドラム第15駅「世界を救う者」感想
ここでOPが変わります。「ノルニル」も良かったけど、私は「少年よ我に帰れ」の方がより好き!少しダークな感じで、後半戦の雰囲気によく合っている。
Ep.14に引き続きゆり過去編ということで、ゆりと荻野目桃果の出会いが語られます。そして桃果の容姿もようやく解禁!(だよね?)
桃果の容姿解禁により、Ep.13Bパートで空の孔分室を駆け回っていた眞悧の運命の人が桃果であったことがここで明かされます。つまり、この回の最後でゆりが言っているように、桃果は単に事件の一被害者として巻き込まれて亡くなったのではなく、何かしら特別な形で事件の渦中にいたことが分かります。桃果はあの事件の中で、運命の乗り換えをし、その代償として消えたんですね。Op映像にもそれが示されています。同時に、その日記を引き継いで燃えている苹果がどのような運命を辿るかもOp映像で示唆されているんですね。作り込み丁寧すぎてため息出る。。
醜いまま誰にも愛されずに生きるくらいなら、死んで白鳥になった方がマシ!
ここ見るたびにフフッとなってしまう。醜いまま生きるくらいなら死んだ方がマシ、って超わかるーー。ゆりは美容垢っぽいですね。
最近思うんだけど、というか先日先輩と話してたことでもあるので、どこまでがあの日に話した事であの後わたしが考えた差分が何なのかもはや曖昧になっているのですが、
「醜いから死にたいわ」って言ってる人ってたぶん醜さのコンプレックスが解消されても死にたいって言うんだと思うんだよね(自己紹介感…)。美醜、学歴、所属、仕事での評価…etc.といった要素に関わらず自分の存在を肯定できないと、どうあっても自分を肯定できない、と思う。
そういう根本的な(基本的な?)自己肯定感を持ち合わせてない人が自分を愛するためには鏡が必要なんだよね。つまり、ゆりの場合で言うと、桃果がそれにあたりますが、桃果がそのままのゆりを愛してくれたから、ゆりは桃果を愛したし、桃果に愛される自分のことも愛すことができた。同様に、xx(属性)がyy(値)だから自分は無価値なのである、みたいな思考に陥るしかない人は、誰かと愛し合うことによって自分を愛することができるんだよね、多分。
場面変わって、陽毬と冠葉と眞悧先生。自分の編んだマフラーをヒバリと光莉がつけているのを見て喜ぶ姿は年相応に見えますね。むしろ14歳(推定)という年齢から考えると少し幼いのかも・・?と思わなくもないが、思い返すと自分も当時はこのくらいだったような気もしないでもない。
何か意味深なことを言う眞悧先生。
「ねえ、家族というのは一種の幻想。呪いのようなものだとは思わない?」
「だって君は、彼らと家族でいない方が楽なんだろう?」
そんなこと、考えたこともない。と否定する冠葉ですが、Ep.1ラストシーンを思い起こしてみると、そんなわけないだろ!というのが見ている人全員の感想ですね。
でもなんか、こうまで輪るピングドラムを人生のバイブルにしておきながらこんなことを言うのもどうかと思うけど、女性として愛しているが手を出せない人と家族のように暮らすって本当に可能なのかな?私が冠葉の立場であれば、防衛本能から女性として愛することをやめてしまいそうな気がする。というか、実際陽毬はそのようにしたわけですね。自分の本当の気持ちを心の奥底にしまい込んで、見ないふりをした、と。その点、ある程度自覚的に陽毬を女性として愛し続けていた冠葉ってゴイスー。
家族は呪いだ、というのは、子どもの立場であるから言えることだと思うのだけど、どうなんだろう。幻想だね、くらいなら、誰の立場でも言えるけど。
冠葉は自分から高倉冠葉になることを選んだわけではなかったから、高倉家という共同体を(あるいは夏芽家という血を)呪いである、と言う権利がある。と思う。一方、たぶん晶馬と陽毬にはその権利はない(彼らは自分で選んでいる)し、実際言ってないし、たぶん思っていない。だから自分で選ぶって大事よね。とか言いつつ、一番最初に得る家族は、自分で選ばないで与えられるものなので、難しいよね。Ep.1冒頭かどこかでそういうのあったよね。「裕福な家庭に生まれる子ども、美しい母親から生まれる子ども、飢餓や戦争の真っ只中に生まれる子ども…」って。
今書いてて思ったんだけど、寧ろ、だからこそ、自発的に誰かを愛し、人生を分け合うことを願い、家族になる(家族を作る)、ということが必要なのだ、というメッセージがあったのかもしれない。冠葉も、晶馬も、陽毬も、ゆりも、田蕗も、実親によって構成された家族には恵まれていないが、自分で選んで人を愛し家族という共同体を構築しているし、それが結果的にほんとうのさいわいに繋がっているわけじゃない。そういうことだったのかも。輪るピングドラムにおける「家族」って。
「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉が意味するのは、「僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ」であり、「愛してる」であり、もっと平易な言葉にすると「一緒に生きてください、家族になってください」なんだよね。
なんか最終回感想みたいなことを書いてしまった。
次回は第16駅。
夢の話
随時更新する。
2021/10/17 Sun
大部屋に入院している。うるさいなと思ったらYouTuberのないとーとプロジェクトの銀縁眼鏡先輩がそれぞれ動画撮影をしている。隣のベッドにはPMOの人がいて、私はその人相手にStar Schema構造の話をしていて、ホワイトボードが欲しい…と思っていた。
銀縁眼鏡先輩は3Dモデルを作れるカメラで撮っていて私もカメラを向けられて妙にイライラした。
2021/10/15 Fri
先輩と作業通話中に私の心臓が止まり、3分後に死ぬことになる。
「やばいどうしよう心臓止まっちゃいました」
「え、今?!なんで?!だから健康診断の精密検査早く行きなって言ったじゃん!」
「そうなんですけどもう今更なんで、とりあえず私の頭の中にしかないタスク引き継ぎますね?」
などと会話していた。限られた時間の使い方がいかにも私らしいなと思ったが、正論を言うならそもそも「XXさんの頭の中にしかないタスク」というのは存在させるべきではないのだよね。。あと、健康診断の精密検査はちゃんと行きましたよ、先輩。
2021/10/10 Sun
自分の結婚式の計画を詰めている(相手不明)。Fallback計画をPPTにまとめていて、トリガになり得るイベントが起こらない/いつ起こるで表に整理して書くケース毎に対応を書いているのだが、私がケース漏れを指摘した(いわゆる”MECEじゃないね”ってやつ)。相手は「現実的に起こり得ないので書かなくて良いのでは?」と言い、私は「であれば、そのような理由で考慮しない旨を書くべきでは」と言っていた。
結婚するかはさておき、その時にFallback計画をPPTに起こすかもさておき、そういうシチュエーションが万一発生したら相手が正しいんじゃなかろうか、と今思った。プロジェクトワークであれば私の意見にも一理あるかもしれないが。
2021/10/9 Sat
お風呂に入って寝る準備を整えたタイミングで家に家族の知り合いが来る。知らない人が家にいるのが苦痛で吐くが胃液しか出ず、便器に髪が当たったり吐しゃ物が付いたりしてものすごく嫌だ…と思ったところで失神。
目覚めてリビングに行くと母から予備校のテキスト(中3~高1)を渡される。「ずっと学校行ってないから難しいだろうけど」と言われ、確かにね、と思いつつ「いつからだっけ」と聞くと「中学上がってからだよ」と言われる。確か夢の中で自分は高1だった。
実際のところ不登校になったことはない。なりたかったけど、まあならなかったよね。自分ってそういう所あるんだよな。死ぬ死ぬ言って結局死なんやつ。
輪るピングドラム第14駅「嘘つき姫」感想
ゆり回。珍しく高倉兄妹がおまけになっている。
ヅカ風の劇シーンからスタート。今となってはこれも懐かしいですね。
ゆりと結城翼のベッドシーンからの爆速破局。
「前から思ってたけど、あなたってワンパターンでつまらない。そんなテクで女が満足するとでも思ってるの?」
…いや、これキッッッツw、くないですか?w私だったらこんなん言われたらフツーに泣いてしまう。繊細乙女だから。。いや、こういうのしたことないから知らないけども!
「この世界は残酷なルールに支配されている。求められる者と求められない者。その二つを分けるラインが私には見える。」
「嘘よ。この世界はみんな嘘でできている。未来永劫、誰も私を本当に求めたりなんかしない。あなただけだった。あなただけが私を美しいと言ってくれた。会いたい。今すぐあなたに。」
きらびやかな舞台人・ゆりの悲痛な心の叫びですねー。この二つの発言から、
- ゆりは元々求められない側の人間であった。
- 誰か(後続の場面から初恋の相手すなわち桃果と判明する)だけがゆりを美しいと言ってくれた。
- 今既に彼女はいない(桃果は95年の事件に巻き込まれて亡くなっているため)。なので、結局今本当のゆりのことを求めてくれる人はいない。
という事が読み取れます。求められない側と求められる側を行き来した(そして今前者に在る)からこそ、求められる者と求められない者を分けるラインが見えるんですね。。これ大事なやつ。
ちょっとピングドラムから話逸れますが、「会いたい。今すぐあなたに。」という台詞を今になって聞くと、この作品の監督である幾原邦彦監督の次の作品「ユリ熊嵐」を思い出します。あの作品、たしか一番最初の台詞がこれだったんです。
「会いたい...今すぐあなたに会いたーーーい!」
勿論、ゆりの発言と関連があるわけではないですが。。
ユリ熊嵐もピングドラムに負けず劣らず難解(個人的にはピングドラムより取っつきづらい)なんですが、あれって一言で言うと「本物のスキの力で断絶を超えて一緒に生きる!」話だったと思うんですね。あの世界の中では、本物の強いスキの力で断絶を超えることができた。件の台詞は断絶の向こうにいる大好きな相手に今すぐ会いたいよー!(会いに行く!!)という意味なんです。
だから同じ言葉でも、「ユリ熊嵐」のそれの方がずっと前向きで強くて明るくてポップに響いていますね。会いたいって強く強く願ったら会えるから。
ユリ熊嵐の世界って不可逆な不幸みたいなものをあまり感じなかったし今から思うとなんだかパワフルな世界観だったのかも。。時間ができたら、あれももう一度きちんと見直したいです。(ちなみにメインキャラクターの一人は陽毬ちゃんの荒川美穂さんが声優を担当されています。ダイスキ。)
ピングドラムの話に戻ります。
場面変わって、苹果ちゃん。「すっごく待ったんだからね!」とぶりっ子調に晶馬に駆け寄りますが、自分は両親が苹果(の家族)に対して犯した罪を償えないから、もう関わらない方が良い、と徹底的に拒絶されてしまいます。Ep.11の良い感じの雰囲気はどうした?
Ep.13のラストから察せられるように、苹果は自分の運命(姉の死別に伴う両親の離別や自分と晶馬の運命(犯罪者の家族と被害者の家族という関係)を受け入れ、現在とそこに続く未来を見ており、今自分の持っている感情や他者との関係性を大切にしようという意思があります。しかし、晶馬は現段階ではそうではなく、あくまで自分の家族の過去を自分の罪として捉え、それに囚われており、被害者の家族は絶対に加害者の家族を許さないのだ、と苹果を拒絶するのですね。
あの事件に伴う影や世間からの攻撃というのはあまり具体的には描写されませんが(陽毬ちゃん消しゴム投げられ事件くらい?)、晶馬(や高倉兄妹)の傷の深さがここから伺えますよね。晶馬の言い分は晶馬視点で考えると、ごもっとも?とは違うけど、ああ言ってしまうのも無理ないのかも。
それにしても、ここの表情良いよね。
泣きながら膝をついた苹果ちゃん(地面ばっちい...)を拉致って再びゆりさんのターン。今回(と次回)はゆりさんにフォーカスする回なんですね。好きな台詞はこれ。
「彼女といれば、どんなものもキラキラ光って見えた。世界は愛すべきものに満ちている。そう、この私も含めて。」
これね、分かる。愛してる人がいて、その人と一緒にいると、確かに世界ってキラキラするし、そんな世界に身を置いている自分のことも肯定できますよね。。しみじみ感。。
本当の私を知って、それでも私を美しいなんて言う人はいない。嘘、嘘、嘘。この世界はみんな嘘。美しいものだけが本当。だから誰も、私のことなんて愛していないの。だけど…だけど、桃果はこの世界でたった一人私のすべてを知っていて、それでも私のことを美しいと言ってくれた。彼女だけが本当の私を認めてくれたの。桃果は、私の運命の人だった。
桃果はゆりの運命の人だった。そしてこれまでの田蕗の発言や露天風呂の場面、卓球の場面の情報を総合すると、田蕗にとっても桃果が運命の人で、桃果をよすがとしてゆりと田蕗が繋がっているのではないか?、と読み取れますね。
それにしても、ゆりの体には一体何があるんだ。。具体的に何がどうというところは結局明かされないんですが、結城翼が脅しのタネにしちゃうくらいの身体的特徴って何なんでしょう。女性器になんらか細工されてるとか?ですかね。このほか良い感じの仮説をお持ちの方、ぜひご教示ください。
Ep.14は伏線の回収よりも延長が多くすっきりしない回となりました。。が、きっとEp.15で何かしらの大きな謎が明かされるはず、と信じて1週間待った者だけがカタルシスを手にします(多分)。続きは来週。
推しの話
最近よく推しのことを思い出すので書く。
「推し」というのは(私の中では)固有名詞で、学生時代の最後のアルバイト先の社員さんを指す。当時26歳くらいで、黒縁の眼鏡がよく似合う、淡泊で少し不愛想だけど、とても頭が良くて根はやさしい人だった。
推しと出会ったのは大学3年の夏。私がそのアルバイトにエントリーした時、折り返して電話をくれたのが推しだった。あと、面接をしてくれたのも推しだった。
流石に面接の時に惚れた、というわけではないことは覚えているが、推しのことを好きになった時期やきっかけは、もう忘れてしまった。眼鏡かけてスーツ着てるとそれだけで10割増しで魅力的に見えてしまう病気に罹っているのでとにかく推しの見た目が好みだった。それで、気付いた時にはいつも目で追うようになっていた。推しが出勤していると、それだけで背筋がしゃんと伸びて、お客様対応をする声も明るく柔らかくなっていた、ような気がする。
推しへの思いが「好き」だけでなく「尊敬」も入るようになったのは、私が研修を終えて2か月くらい経った頃。ある日、私は初めてクレーマー(という言い方は良くないが)のお客様にあたってしまった。
それまでも当たりが強いお客様には何度か当たっていて、それらは淡々と受け流せていた(若いのに凄いね、とよく言ってもらえていたが、生育環境によるところが大きかったのだと思う)のだが、その日は耐えられなかった。対応中はなんとか顔と声を保っていたが、終わった瞬間にその場で泣き崩れてしまった。
周りの先輩はひたすら優しく慰めてくれて「ゆきのちゃんは悪くないよ」「大変だったね」などと言葉を掛けてくれたのだけど、推しだけはフォローするだけでなく私の対応の改善点まできちんとFBしてくれた。こういう言い方ができればもっとよかったね、とか。それで推しのことを上司?レポートライン?として尊敬するようになった。
人にきちんとFB(正のFBも、負のFBも)できるって大事なことだと思っていて、今の会社は特にそういう文化が強いし、そのバイト先もFeedback is a giftみたいな概念はあった。でもそれを実行できている人はそんなに多くなかったと思う。結構、人間関係面倒な環境だったし、みんなモヤモヤ考えていても本人に直接言うことはあまり無かった。
推しも相手を見てコミュニケーションをとる人だったけど、特に私相手にはきちんとそういうことを伝えてくれたから(私もFBください、ちゃんと成長したいですと言っていたし)、そこを尊敬していたな。ずっと。
誰かの上に立つなら推しのような人でありたい。とその時からかなり長い間思っていた。(流石に今はプロジェクトの先輩数人がよりリアルなロールモデルになっているけど、必要条件として推しのような要素を持つことは今でも望んでいる)
推しと2回ほど飲んだことがある。1回はなんと、サシ。サシって!おい!好きな人をサシ飲みに誘えるような骨のある時代が私にもあったんですねー。(遠い目)
その時の話で印象に残っていたのは期待値コントロールの話だった。推しは「周囲からの期待値は自分の実力の80%くらいになるようにしておき、容易に期待値を満たしたり超えたりできるようにする」と言っていた。なるほどなと思った。
私は承認欲求の塊で他者からの承認のためならいくらでも身を削るので、どちらかというと「自分の実力の120%くらいを宣言して周囲からの期待値とし、それを裏切らないために死に物狂いで頑張る」タイプ(120%なのか110%なのか、実際にそれを満たせるかは時と場合による)。当時からそうで、推しもそれは認識していて、「偉いなと思うけど、疲れない?」と言われた記憶がある。というかこれ今でもよく人に言われるな。変わってないな。
推しは他者からの期待を裏切らないことを至上命題としていたんですね。一方私はまず期待値を上げないと自分を見てもらえない、みたいな恐怖感があり、とにかく自分を見てもらいたいのでそういうことになっているんだと思うんだよな。私のやり方は確かに疲れるし、リスクあるし、要領いいか悪いかで言ったら悪いんだと思う。恐怖ベースで動くってよくないし。それで推しのそういう戦略的な所は、エエな(小並感)と思った。あと、推しは自分に注目されなくても別に構わない、と言っていて強いなと思った。
推しは私の扱いが上手かった、と思う。人をよく見ている人だった。
よく私に大量の仕事を渡して、私が頑張って終わらせると「流石だね」と、大してありがたくもなさそうに淡々と褒めてくれた。そんなところが最高にツボだった。ちなみにこれを先輩バイトのお姉さんに言ったら「ゆきのちゃん趣味悪すぎ」「ていうか(推し)さんひどいじゃん」とさんざんな言われようだった。
推しとの最後の思い出は、私の退職の日。3月の終わりごろはまだ寒くて、空気がひんやりと張りつめていた。
朝、バイト先の入っているビルに入ると、エレベーターホールには推し一人だけがいた。冷たくて静かなエレベーターホールに、推しと私だけがいて、時間が止まっているようだった。
エレベーターに乗り込んで、推しと目を合わせて少し会釈した。「実は今日が最終出勤日なんです」とか、何か話そうと思ったのだけど、何も言葉が出なくて、そのままオフィスのあるフロアに着いて分かれた。出勤時に推しと二人きりになるなんてそれまで一度もなかったので、あの時間は幻のようだったと今も思う。
最後退勤する時、推しにも挨拶をした。「よく頑張っていたと思うよ。研修の飲み込みも早かったし、数字も一番だったし。本当にお疲れ様でした」って言ってくれて、今ここで死んでしまえたらどんなに良いだろうな、と思った。
推しはものすごく淡泊で不愛想で、他の人と違って私が実績上げてもあまり褒めてくれなくて、でもレポートライン?として(先輩ではないが上司とはまた少し違うんだよな)私をきちんと見てくれていて、最後にそういう言葉をかけてくれたんだよね。やっぱり確かにこの人のことを好きだった、と最後の日に確信してしまった。
推しとの思い出はこれで終わり。本当は先輩が私の送別会を企画してくれていて、そこで一度だけでも再会できるはずだったんだけど、情勢が落ち着かないうちに時間が経ちすぎてしまった。
LINEは知っているけどきっともう二度と連絡を取る事はないのだろうな。あと、推しはあくまで推しであって、そういう風に連絡を取るのはなんか違うと思う。
でも、私は環境が変わっても必ずそこに誰か物凄く尊敬できる人がいて、その人を目指して頑張れてしまう人間だから、また推し(not固有名詞)を作って頑張れば、推し(固有名詞)との思い出って消えたりしないよね、と思ったりもしている。
おしまい。
怖くない夢、あるいは本当の怖い話
大学2年の時に書いた話を古いブログから見つけて面白かったので供養。
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日本の夏は暑い。
まだ気温が30℃を超えない五月下旬でも、湿気を含んでじっとりと重くなった空気が体に纏わりついて、嫌な汗が吹き出す。運動した時の玉のような、心なし爽やかな汗とは違う、ねっとりとした汗。
三田キャンパスの入り口は複数あるが、どこから入るにせよ、階段を登らなければ入らない。これは塾生、塾員は世間の凡百より上に立つという福澤諭吉先生のお考えによるもの、ではない。単純に地形の問題である。しかし、田町駅に降り立ち、アスファルトとビルの照り返しで容赦ない陽射しを浴び、階段で息を切らし、中庭で遮られることのない陽射しを浴びるのはまた辛いものがある。
キャンパスにひと気はない。常日頃から三田キャンパスは日吉キャンパスに比べて人が少ないが、今日に至ってはまったくと言ってよいほど人がいない。原因は明白である。今日が土曜日だからだ。人のいない中庭はミニチュア模型のように現実感がなく、暑さで溶けかけている脳みそと陽炎が相まって、視界が訳のわからないものにどろどろと変質していくようだった。
中庭を通り抜け、第一校舎と図書館旧館――国の重要文化財に指定されている――の間を通り、その裏にある研究室塔に向かう。普段は足を踏み入れることのない、どこか浮世離れした場所。いつ入っても冷たい空気に満ちており、静かで、かびくさく、立てた音と一緒にこちらの生気まで吸い込まれていくような嫌な場所である。
私は情報メディア基礎Ⅱの課題を提出しなければならなかった。木曜に出題され、土曜が提出締切なのだが、今週の木曜と金曜は目が回るほど忙しく、課題にまで手が回らなかったのだ。
ここへ来るまでにかいた汗、浪費した体力、往復3時間弱になる通学時間のことはこの際忘れることにする。私の心の中は、研究室塔の陰鬱な雰囲気とは反対に、南校舎のカフェテリアのように温かいキラキラとした安堵の光で満ちていた。どんな授業においても課題から解放されるというのはこの上なく嬉しいことだ――たとえ、一週間も経たないうちに別の課題を課されることになるとしても。
エレベータで三階へと上がり、リノリウムの床を歩く。キュッキュッと自分の足音がするのが申し訳なくなるほど静かな廊下を進み、目当ての研究室に辿り着いた。最後は小走りで部屋に入り、ボックスに課題を投げ入れた。かさっ、と紙の擦れるこの音が、私にとっては福音にも等しい、解放の鐘であることを、他の誰が知っているだろう。私は解放されたのだ。
あとは研究室に背を向けて、家に帰るだけだ。私はまたリノリウムの床を歩く。心なし、先程よりも廊下が暗い気がした。5m先すらおぼつかず、廊下の終わりが見えない。空気はさらに冷たく、重く、せっかく引いた汗がまたじっとりと背中を濡らす。歩いても歩いても、廊下の終わりが近付いていると思えなかった。それどころか、自分のそばの景色すら、後ろへ流れていくスピードが異様にのろくさく、空気のみならず全体が停滞しているようだった。
――早くここから出たい。
ふとそんなことを思った。研究室塔はいつもかびくさく、ひんやりとした空気に包まれていて、不気味で、長居したい場所ではなかった。気付くと私は走っていた。靴の裏のゴムと床が擦れる音が響く。冷え切った空気が肺を刺す。ここは、こんなに寒い場所だっただろうか。走り始めてもう何分経ったか、考える力もなくなっていた。手足の感覚は、既になかった。
暫くして、私は自分の足音の他に、もう一つ足音がすることに気付いた。ヒールが床を蹴るカツンカツンという音。そしてそれは、ゆっくりとこちらへ近付いていた。
私はもはやドライアイスの煙のように冷たい廊下をひたすら走った。全身が余すところなく痛かったが、それでも足だけは止めなかった。どれだけ走っても、足音との距離は広がらなかった。しかしもう限界であった。堪えきれずに咳き込むと、押さえた手の平に赤黒い血がぺっとりとついた。そのままがっくりと膝をつく。息切れと冷えでぼんやりとした頭で、もう、どうなってもいいと思った。もう走れない。そういえば、此処へは何をしに来ていたのだっけ。
足音が、すぐ後ろにまで来ていた。背中が凍るように寒かったのに、汗が止まらなかった。そして、「それ」は軽く私の肩を叩き、私の名前を呼んだ。
「有岡さん」
私はゆっくりと振り返り、「それ」を見た。その声には聞き覚えがあった。「それ」――否、「彼女」は、紛れもなく、情報メディア基礎Ⅱの担当教授である池山みぞのであった。
「は、い」
ずっと走っていたせいで喉がからからで、掠れた声で返事して私は咳き込んだ。えずく私を慈愛に満ちた目で見ながら、池山は至極穏やかな声で言った。
「問3の答えが間違っています。やり直して、今日中に再提出してください」
嫌だ、嫌だ、嫌だ――そう喚いたのは、心の中だっただろうか、それとも口に出していたのか。どちらであったかは、知るよしもなかった。すぐに池山も、冷たく暗い廊下も消え去り、気付けば私は自室のベッドの上に寝ていた。
「全て夢だったのか」
あの暗くて冷たい、終わりのない研究室塔も、異様に足の速い池山も。
――いや、待て。
今日はよく晴れた土曜日だ。そして、私は、今日が提出期限の課題を、研究室に提出に行かなければならなかった。
名付けの話
って今タイトルを書いて思ったんだけど、16年度の某大学学部の小論文の題材が、名付けの話だった気がするな。そこの入試問題は全体的にわりと好きですが(色が強いので)、これは特に好きな回でした。
それはさておき、週末友人と会って思ったことを少し書き留めておく。
私はだいたい「名字」「名字+さん」「名字+先生」「下の名前」みたいな呼ばれ方をするのですが、もう一つサークルの先輩や各コミュニティの同期など比較的少数の人から呼ばれるあだ名があり、それが一番好きなんですよね。なんて言ったらいいのかな、下の名前を一文字だけ取った感じ。
そのあだ名を考えてくれた子とは色々あって疎遠になってしまって多分もう二度と会えないんですよね。当時を振り返ると色々と本当にお世話になった・ありがとう、とも、申し訳なかったとも、総合的に振り返るとあなたを好きでした、とも思うが、それを伝えることは多分できない。
それは悲しいし、人生ってたまにこういうことあるよね(諦念)って感じですが、彼女と純粋に仲が良かった時代に彼女からもらった名前を、今でも呼んでくれる人がいるというのは、幸せだしありがたいことだなと思います。
冒頭の話に戻ると、名付けというのは社会的な行為なんですよね。名前をつけるということは、すなわちIdentifyするということなんですよ(こう書くと認証・認可みたいだな)。その人を、あるいはその人との関係を。
名前をつけるとそれが唯一無二のものになってしまう。そうすると失い難いものになってしまう。と私は思っている。
「さらざんまい」のメッセージは「喪失の痛みを乗り越えてでも、人とのつながりを求めることで、繋がれるし生きていける」であり、私はそれに共感しますが、一方自分が当事者になってみるとそこに踏み出すことはとても難しい。喪失の痛みはあまりに苦しいし、もうあまり大きな痛みに何度も耐えられるような心臓の弾力はない。
となると、「はじまらない/つながらない/おわらない」に逃げる、というのも、現実的な選択肢になってしまうわけです。勿論、そうなったら行きつく先はカパゾンビですが。
この話は終わっていないので今オチないですが、、きちんと人と繋がっている人は本当に偉いな、と思います。それだけ。
色々考えると本当に生きてるのって面倒だな・・という感想になってしまうの、良くないな。本当に。
20代も中盤に差し掛かって未だにメンヘラ発言してるのは痛いので、生きるポジティブな動機を持ちたいものですね。一歩踏み出せたら、ネガティブな感情が少し減って相対的にポジティブに傾いたり、するんじゃなかろうか、とか言って。
輪るピングドラム第13駅「僕と君の罪と罰」感想
まずこの回、サブタイトルが良いですよね。何が良いかというと、取り敢えずこれを見てください。
2011年の放送当時(放送開始前)に流れていた番宣CMの一つなのですが、この中で「僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ。」という言葉が出ています。この言葉はこの物語におけるキーメッセージなのですが、今回はこのうち罰の部分に大きく触れる回だったということですね。罰の本質情報ってこれじゃないよねと個人的には思うけど。。それはEp.24くらいで語りたいところ。
「あの時から僕たちには未来なんてなく、ただきっと何者にもなれないということだけがはっきりしていたんだ。世界が僕たちだけを置いてきぼりにしたんだ。でも、君のために、運命は変えてみせる。」
陽毬ちゃんのナレーションも良すぎる。言葉も良いが、これを陽毬ちゃんが語るところにさらに大きな感動がある。
さて、眞悧先生の怪しげな薬によって陽毬はめでたく蘇生します。おめでとう!と言いたいところですが、今回も陽毬の延命には大きな代償が支払われています。しかも代償を支払う相手が、前回とは比べ物にならないくらいタチが悪そう。大丈夫?
「妹のために百ぺんその身を焼いて、君に何が残るの?黒焦げになった醜い蠍の心臓?それとも、真っ白な灰?」
「俺は何も欲しくない。欲しいとも思わない。ただ陽毬さえいれば…」
眞悧との契約はさしずめ悪魔の契約といったところでしょうか。ここ、悪魔相手に凄いこと言っちゃってるんだよね。悪魔との契約で自分に呪いをかけてしまっている。。こんな事を言ったら、黒焦げになった醜い蠍の心臓や真っ白な灰すら残らないようなひどいことをされちゃいますよ。口は禍の門、ですね。
冠葉が眞悧に心臓を売り渡しているシーンと並行して、3年前高倉家が普通の家でいられなくなった日の回想シーンが入ります。唐突に壊れる日常。いつもと同じ朝、いつもと同じように家を出て、でもそれっきり帰らなかった両親。変わってしまった世間からの目。Ep.9の陽毬の回想シーンの中で陽毬が学校に行けなくなったのも、当然ながらこの出来事がきっかけだったのでした。
Bパートは雰囲気ががらりと変わって、ふたたび空の孔分室へ。
全然関係ないですが、空の孔分室の扉みたいなパズル、昔流行りましたよね。これ!
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昔からこういうシンプルで地味な遊びが好きで、スライドパズルから始まり、オセロ、数独、ソリティア、フリーセルと地味なゲームばっかりずっとやってきたのでした。と言いつつリズムゲームに出会ってからはDIVA、スクフェス、Cytus、P4D・P5Dと色々ハマったけども。
話が逸れました。
眞悧のスーパー自分語りシーン。16年前、自分と同じ景色を共有できる世界でたった一人の女の子と出会い、同時にその女の子に否定された、という。
自分と同じ世界を見れる人が誰もいないという話は別に眞悧に限った話ではないというか、世界中のすべての子ども(というか人間)はそうですよね。自分という箱を通して世界を見るしかないから、自分の視界を箱の外の誰かと完全に共有することはできない。同じものを見る事ができたとしても、必ず少しずれた位置から見ることになる。違う人間であるというのはそういうことで。
だからこそ、自分の世界(あるいは外の世界を見るレンズ)である箱の色や形が自分と似ている人や、箱から手を伸ばして繋がり距離を縮めることができる人というのは貴重で、それこそ「世界でたった一人」にも思えるのかもしれない(少なくともその時点では)。これもある種の「運命の人」と言えるかもしれませんね。(陽毬にとっての「運命の人」とはまた別の意味です。)
図書館をケラケラ笑いながら駆け回る女の子がおそらくは眞悧にとっての世界でたった一人の相手であるその女の子を指していると察せられるわけですが、ここではそれが誰なのかまだ特定されていません。勘のいい人なら1周目のこの段階で気付いたりするんだろうか。
ところで、眞悧は分かりやすく怪しいけど、女の子もちょっと不気味な感じで描写されているね。空の孔分室にいる(=生者ではない)から、なのかしら、と今にして思ったり。
場面が変わって、池袋駅東口。人間2人が反り返って頭と足を合わせた謎の銅像が印象的です。これ、輪るピングドラムオリジナルかと思ったらガチで本当にあるやつで驚きました。何食ったらこんなん思いつくの?
銅像もそうですが、池袋東口駅前の再現の忠実さに毎度関心してしまいますね。デュラララとかもそうですが。ちなみにデュラララは池袋近辺、東西南北どこも映っていた気がするけど(北だけ無かったかな)ピングドラムは東池袋しか出てませんね。まぁこの正統派文化系アニメに映せる池袋ってそこだけだからね。
「明るい場所と暗い場所は共存しなくてはならないの。すべてを明るい光で照らしてしまうと、必ずその反動で、暗い場所が明るい場所を攻撃するの。」
そして真砂子のかっこいい台詞シリーズ。これは、なんとなく「そうね。。」と腑に落ちる。世界はたった一つの正義だけで全てを救えるほど単純ではないね、という話と理解しています。(違うかも。)
最後は田蕗先生と苹果ちゃん。ここは特に好きな場面の一つです。
「人生には、どうやっても取り戻せないことがある。でも僕は、君と出会えてよかったよ」
「どんなつらいこと、悲しいことにも意味はある。無駄なことなんて一つもないよ。」
ここ好きだなあ。苹果ちゃんの返しもそうですが、途方もない悲しみを抱えた二人がそれでも前を向いて生きていこうとしている、という感じがしますよね。
そして苹果は一人帰路につき、道中で父親の再婚を祝福するメッセージを送ります。「母親、父親、桃果(に成り代わった自分)」の家族を再構築する、という歪な目標とここで決別しているんですね。
家族の元の姿を取り戻す(しかもメンバーは母親、父親(※離婚済)、桃果(※苹果))という目標設定は完全に方向性が間違っているとしか言えないものでしたが、これはこれで幼い頃の苹果が当時の頭で必死に両親を思って出した結論で、家族がバラバラになった中で苹果が信じてきたよすがではあったので、これを手放すというのは苹果にとってパラダイムシフトだと思います。
「あたしは、運命って言葉が好き。ほらだって、運命の出会いって言うでしょう?たった一つの出会いが、その後の人生をすっかり変えてしまう。そんな特別な出会いは偶然じゃない。それはきっと、運命。
もちろん、人生には幸せな出会いばかりじゃない。嫌なこと、悲しいことだって沢山ある。そういう不幸を運命だって受け入れるのはとても辛いこと。でも、あたしはこう思う。悲しいこと、辛いことにもきっと意味はあるんだ、って。無駄な事なんて一つもないよ。だってあたしは、運命を信じているから。」
ここは台詞、ここに至るまでの流れ、映像の組合せすべて合わせて本当に素敵なシーンだと思う。
苹果の運命論は2~8話で繰り返し語られているので、観客にとってこの言葉は新しいものではないですが、この場で改めて語られるそれは今までとはまったく異なる意味を持って響くのです。敢えて書くのも憚られるくらい良い演出なのですが、「運命の出会い」という言葉が指す相手はかつては姉の友人であった田蕗でしたが、今は高倉晶馬を指しているんですよね。そこの変化を、敢えて同じ台詞を流すことによって際立たせている。
「もちろん」以下の部分は苹果が本当の意味で自分の人生の起こった辛いこと(姉との死別、両親の離別)を受け入れた、ということも表しているんだけど、3年前の高倉兄妹の映像を被せる事によって高倉家についても語っているのですね。高倉兄妹にとっても、人生は嫌なことや悲しいことがあって、しかもそれらは並大抵のことではなかった。でも、きっとそれには意味がある。それはきっと運命で、きっと運命の至る場所に何かがある(きわめて個人的な好みで「何か」に言葉を補うなら、「ほんとうのさいわい」ですかね)。ということを言っているんだと思います。
今ここまで書いていて気付いたけど、Bパート冒頭の眞悧先生の「僕はね、運命ってやつがこの世に存在するのか確かめたいんだ」という発言と最後の「あたしは、運命を信じているから」って綺麗な対比になっていますね。眞悧と苹果を対極に位置するものとして際立たせている、のか・・?
今回は久しぶりに運命について多くの事が語られた回でしたね。ちなみに、私は運命を信じています。といっても、生まれる前から全てが決定づけられていると思っているわけではなく、「基本目の前にあることは自分の努力でどうにかしてやる」と思っているパワー系なのですが、
学生時代の友人との出会いであったり、大学や今の会社との縁、今プロジェクトでお世話になっている先輩やお客様との出会い、評価してもらえる仕事を振ってもらえるチャンスを得たことなど、自分の努力以外の要素によって自分の人生が思いもよらぬ方向に好転してきた経験があると思っています。そんな幸運はきっと、運命だと思うのです。無駄な事なんて何一つなくて、真摯に誠実に人事を尽くしていれば、きっとその先の何かに繋がっていると思うのです。点と点が繋がるように。
謎のポエムを挟んでしまいましたが、今回はこのくらいで終わりにしたいと思います。次回は第14駅。生存戦略、「大好きだよ!!」