輪るピングドラム第13駅「僕と君の罪と罰」感想

まずこの回、サブタイトルが良いですよね。何が良いかというと、取り敢えずこれを見てください。

輪るピングドラム 番宣CM1 - YouTube

2011年の放送当時(放送開始前)に流れていた番宣CMの一つなのですが、この中で「僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ。」という言葉が出ています。この言葉はこの物語におけるキーメッセージなのですが、今回はこのうち罰の部分に大きく触れる回だったということですね。罰の本質情報ってこれじゃないよねと個人的には思うけど。。それはEp.24くらいで語りたいところ。

「あの時から僕たちには未来なんてなく、ただきっと何者にもなれないということだけがはっきりしていたんだ。世界が僕たちだけを置いてきぼりにしたんだ。でも、君のために、運命は変えてみせる。」

陽毬ちゃんのナレーションも良すぎる。言葉も良いが、これを陽毬ちゃんが語るところにさらに大きな感動がある。

 

さて、眞悧先生の怪しげな薬によって陽毬はめでたく蘇生します。おめでとう!と言いたいところですが、今回も陽毬の延命には大きな代償が支払われています。しかも代償を支払う相手が、前回とは比べ物にならないくらいタチが悪そう。大丈夫?

「妹のために百ぺんその身を焼いて、君に何が残るの?黒焦げになった醜い蠍の心臓?それとも、真っ白な灰?」

「俺は何も欲しくない。欲しいとも思わない。ただ陽毬さえいれば…」

眞悧との契約はさしずめ悪魔の契約といったところでしょうか。ここ、悪魔相手に凄いこと言っちゃってるんだよね。悪魔との契約で自分に呪いをかけてしまっている。。こんな事を言ったら、黒焦げになった醜い蠍の心臓や真っ白な灰すら残らないようなひどいことをされちゃいますよ。口は禍の門、ですね。

冠葉が眞悧に心臓を売り渡しているシーンと並行して、3年前高倉家が普通の家でいられなくなった日の回想シーンが入ります。唐突に壊れる日常。いつもと同じ朝、いつもと同じように家を出て、でもそれっきり帰らなかった両親。変わってしまった世間からの目。Ep.9の陽毬の回想シーンの中で陽毬が学校に行けなくなったのも、当然ながらこの出来事がきっかけだったのでした。

 

Bパートは雰囲気ががらりと変わって、ふたたび空の孔分室へ。

全然関係ないですが、空の孔分室の扉みたいなパズル、昔流行りましたよね。これ!

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昔からこういうシンプルで地味な遊びが好きで、スライドパズルから始まり、オセロ、数独ソリティアフリーセルと地味なゲームばっかりずっとやってきたのでした。と言いつつリズムゲームに出会ってからはDIVA、スクフェス、Cytus、P4D・P5Dと色々ハマったけども。

話が逸れました。

眞悧のスーパー自分語りシーン。16年前、自分と同じ景色を共有できる世界でたった一人の女の子と出会い、同時にその女の子に否定された、という。

自分と同じ世界を見れる人が誰もいないという話は別に眞悧に限った話ではないというか、世界中のすべての子ども(というか人間)はそうですよね。自分という箱を通して世界を見るしかないから、自分の視界を箱の外の誰かと完全に共有することはできない。同じものを見る事ができたとしても、必ず少しずれた位置から見ることになる。違う人間であるというのはそういうことで。

だからこそ、自分の世界(あるいは外の世界を見るレンズ)である箱の色や形が自分と似ている人や、箱から手を伸ばして繋がり距離を縮めることができる人というのは貴重で、それこそ「世界でたった一人」にも思えるのかもしれない(少なくともその時点では)。これもある種の「運命の人」と言えるかもしれませんね。(陽毬にとっての「運命の人」とはまた別の意味です。)

図書館をケラケラ笑いながら駆け回る女の子がおそらくは眞悧にとっての世界でたった一人の相手であるその女の子を指していると察せられるわけですが、ここではそれが誰なのかまだ特定されていません。勘のいい人なら1周目のこの段階で気付いたりするんだろうか。

ところで、眞悧は分かりやすく怪しいけど、女の子もちょっと不気味な感じで描写されているね。空の孔分室にいる(=生者ではない)から、なのかしら、と今にして思ったり。

 

場面が変わって、池袋駅東口。人間2人が反り返って頭と足を合わせた謎の銅像が印象的です。これ、輪るピングドラムオリジナルかと思ったらガチで本当にあるやつで驚きました。何食ったらこんなん思いつくの?

銅像もそうですが、池袋東口駅前の再現の忠実さに毎度関心してしまいますね。デュラララとかもそうですが。ちなみにデュラララは池袋近辺、東西南北どこも映っていた気がするけど(北だけ無かったかな)ピングドラム東池袋しか出てませんね。まぁこの正統派文化系アニメに映せる池袋ってそこだけだからね。

「明るい場所と暗い場所は共存しなくてはならないの。すべてを明るい光で照らしてしまうと、必ずその反動で、暗い場所が明るい場所を攻撃するの。」

そして真砂子のかっこいい台詞シリーズ。これは、なんとなく「そうね。。」と腑に落ちる。世界はたった一つの正義だけで全てを救えるほど単純ではないね、という話と理解しています。(違うかも。)

 

最後は田蕗先生と苹果ちゃん。ここは特に好きな場面の一つです。

「人生には、どうやっても取り戻せないことがある。でも僕は、君と出会えてよかったよ」

「どんなつらいこと、悲しいことにも意味はある。無駄なことなんて一つもないよ。」

ここ好きだなあ。苹果ちゃんの返しもそうですが、途方もない悲しみを抱えた二人がそれでも前を向いて生きていこうとしている、という感じがしますよね。

そして苹果は一人帰路につき、道中で父親の再婚を祝福するメッセージを送ります。「母親、父親、桃果(に成り代わった自分)」の家族を再構築する、という歪な目標とここで決別しているんですね。

家族の元の姿を取り戻す(しかもメンバーは母親、父親(※離婚済)、桃果(※苹果))という目標設定は完全に方向性が間違っているとしか言えないものでしたが、これはこれで幼い頃の苹果が当時の頭で必死に両親を思って出した結論で、家族がバラバラになった中で苹果が信じてきたよすがではあったので、これを手放すというのは苹果にとってパラダイムシフトだと思います。

「あたしは、運命って言葉が好き。ほらだって、運命の出会いって言うでしょう?たった一つの出会いが、その後の人生をすっかり変えてしまう。そんな特別な出会いは偶然じゃない。それはきっと、運命。

もちろん、人生には幸せな出会いばかりじゃない。嫌なこと、悲しいことだって沢山ある。そういう不幸を運命だって受け入れるのはとても辛いこと。でも、あたしはこう思う。悲しいこと、辛いことにもきっと意味はあるんだ、って。無駄な事なんて一つもないよ。だってあたしは、運命を信じているから。」

ここは台詞、ここに至るまでの流れ、映像の組合せすべて合わせて本当に素敵なシーンだと思う。

苹果の運命論は2~8話で繰り返し語られているので、観客にとってこの言葉は新しいものではないですが、この場で改めて語られるそれは今までとはまったく異なる意味を持って響くのです。敢えて書くのも憚られるくらい良い演出なのですが、「運命の出会い」という言葉が指す相手はかつては姉の友人であった田蕗でしたが、今は高倉晶馬を指しているんですよね。そこの変化を、敢えて同じ台詞を流すことによって際立たせている。

「もちろん」以下の部分は苹果が本当の意味で自分の人生の起こった辛いこと(姉との死別、両親の離別)を受け入れた、ということも表しているんだけど、3年前の高倉兄妹の映像を被せる事によって高倉家についても語っているのですね。高倉兄妹にとっても、人生は嫌なことや悲しいことがあって、しかもそれらは並大抵のことではなかった。でも、きっとそれには意味がある。それはきっと運命で、きっと運命の至る場所に何かがある(きわめて個人的な好みで「何か」に言葉を補うなら、「ほんとうのさいわい」ですかね)。ということを言っているんだと思います。

 

今ここまで書いていて気付いたけど、Bパート冒頭の眞悧先生の「僕はね、運命ってやつがこの世に存在するのか確かめたいんだ」という発言と最後の「あたしは、運命を信じているから」って綺麗な対比になっていますね。眞悧と苹果を対極に位置するものとして際立たせている、のか・・?

 

今回は久しぶりに運命について多くの事が語られた回でしたね。ちなみに、私は運命を信じています。といっても、生まれる前から全てが決定づけられていると思っているわけではなく、「基本目の前にあることは自分の努力でどうにかしてやる」と思っているパワー系なのですが、

学生時代の友人との出会いであったり、大学や今の会社との縁、今プロジェクトでお世話になっている先輩やお客様との出会い、評価してもらえる仕事を振ってもらえるチャンスを得たことなど、自分の努力以外の要素によって自分の人生が思いもよらぬ方向に好転してきた経験があると思っています。そんな幸運はきっと、運命だと思うのです。無駄な事なんて何一つなくて、真摯に誠実に人事を尽くしていれば、きっとその先の何かに繋がっていると思うのです。点と点が繋がるように。

 

謎のポエムを挟んでしまいましたが、今回はこのくらいで終わりにしたいと思います。次回は第14駅。生存戦略、「大好きだよ!!」