名付けの話

って今タイトルを書いて思ったんだけど、16年度の某大学学部の小論文の題材が、名付けの話だった気がするな。そこの入試問題は全体的にわりと好きですが(色が強いので)、これは特に好きな回でした。

 

それはさておき、週末友人と会って思ったことを少し書き留めておく。

 

私はだいたい「名字」「名字+さん」「名字+先生」「下の名前」みたいな呼ばれ方をするのですが、もう一つサークルの先輩や各コミュニティの同期など比較的少数の人から呼ばれるあだ名があり、それが一番好きなんですよね。なんて言ったらいいのかな、下の名前を一文字だけ取った感じ。

そのあだ名を考えてくれた子とは色々あって疎遠になってしまって多分もう二度と会えないんですよね。当時を振り返ると色々と本当にお世話になった・ありがとう、とも、申し訳なかったとも、総合的に振り返るとあなたを好きでした、とも思うが、それを伝えることは多分できない。

それは悲しいし、人生ってたまにこういうことあるよね(諦念)って感じですが、彼女と純粋に仲が良かった時代に彼女からもらった名前を、今でも呼んでくれる人がいるというのは、幸せだしありがたいことだなと思います。

 

冒頭の話に戻ると、名付けというのは社会的な行為なんですよね。名前をつけるということは、すなわちIdentifyするということなんですよ(こう書くと認証・認可みたいだな)。その人を、あるいはその人との関係を。

名前をつけるとそれが唯一無二のものになってしまう。そうすると失い難いものになってしまう。と私は思っている。

「さらざんまい」のメッセージは「喪失の痛みを乗り越えてでも、人とのつながりを求めることで、繋がれるし生きていける」であり、私はそれに共感しますが、一方自分が当事者になってみるとそこに踏み出すことはとても難しい。喪失の痛みはあまりに苦しいし、もうあまり大きな痛みに何度も耐えられるような心臓の弾力はない。

となると、「はじまらない/つながらない/おわらない」に逃げる、というのも、現実的な選択肢になってしまうわけです。勿論、そうなったら行きつく先はカパゾンビですが。

この話は終わっていないので今オチないですが、、きちんと人と繋がっている人は本当に偉いな、と思います。それだけ。

 

色々考えると本当に生きてるのって面倒だな・・という感想になってしまうの、良くないな。本当に。

20代も中盤に差し掛かって未だにメンヘラ発言してるのは痛いので、生きるポジティブな動機を持ちたいものですね。一歩踏み出せたら、ネガティブな感情が少し減って相対的にポジティブに傾いたり、するんじゃなかろうか、とか言って。