怖くない夢、あるいは本当の怖い話

大学2年の時に書いた話を古いブログから見つけて面白かったので供養。

 

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日本の夏は暑い。

まだ気温が30℃を超えない五月下旬でも、湿気を含んでじっとりと重くなった空気が体に纏わりついて、嫌な汗が吹き出す。運動した時の玉のような、心なし爽やかな汗とは違う、ねっとりとした汗。

三田キャンパスの入り口は複数あるが、どこから入るにせよ、階段を登らなければ入らない。これは塾生、塾員は世間の凡百より上に立つという福澤諭吉先生のお考えによるもの、ではない。単純に地形の問題である。しかし、田町駅に降り立ち、アスファルトとビルの照り返しで容赦ない陽射しを浴び、階段で息を切らし、中庭で遮られることのない陽射しを浴びるのはまた辛いものがある。

キャンパスにひと気はない。常日頃から三田キャンパスは日吉キャンパスに比べて人が少ないが、今日に至ってはまったくと言ってよいほど人がいない。原因は明白である。今日が土曜日だからだ。人のいない中庭はミニチュア模型のように現実感がなく、暑さで溶けかけている脳みそと陽炎が相まって、視界が訳のわからないものにどろどろと変質していくようだった。

中庭を通り抜け、第一校舎と図書館旧館――国の重要文化財に指定されている――の間を通り、その裏にある研究室塔に向かう。普段は足を踏み入れることのない、どこか浮世離れした場所。いつ入っても冷たい空気に満ちており、静かで、かびくさく、立てた音と一緒にこちらの生気まで吸い込まれていくような嫌な場所である。

私は情報メディア基礎Ⅱの課題を提出しなければならなかった。木曜に出題され、土曜が提出締切なのだが、今週の木曜と金曜は目が回るほど忙しく、課題にまで手が回らなかったのだ。

ここへ来るまでにかいた汗、浪費した体力、往復3時間弱になる通学時間のことはこの際忘れることにする。私の心の中は、研究室塔の陰鬱な雰囲気とは反対に、南校舎のカフェテリアのように温かいキラキラとした安堵の光で満ちていた。どんな授業においても課題から解放されるというのはこの上なく嬉しいことだ――たとえ、一週間も経たないうちに別の課題を課されることになるとしても。

エレベータで三階へと上がり、リノリウムの床を歩く。キュッキュッと自分の足音がするのが申し訳なくなるほど静かな廊下を進み、目当ての研究室に辿り着いた。最後は小走りで部屋に入り、ボックスに課題を投げ入れた。かさっ、と紙の擦れるこの音が、私にとっては福音にも等しい、解放の鐘であることを、他の誰が知っているだろう。私は解放されたのだ。

あとは研究室に背を向けて、家に帰るだけだ。私はまたリノリウムの床を歩く。心なし、先程よりも廊下が暗い気がした。5m先すらおぼつかず、廊下の終わりが見えない。空気はさらに冷たく、重く、せっかく引いた汗がまたじっとりと背中を濡らす。歩いても歩いても、廊下の終わりが近付いていると思えなかった。それどころか、自分のそばの景色すら、後ろへ流れていくスピードが異様にのろくさく、空気のみならず全体が停滞しているようだった。

――早くここから出たい。

ふとそんなことを思った。研究室塔はいつもかびくさく、ひんやりとした空気に包まれていて、不気味で、長居したい場所ではなかった。気付くと私は走っていた。靴の裏のゴムと床が擦れる音が響く。冷え切った空気が肺を刺す。ここは、こんなに寒い場所だっただろうか。走り始めてもう何分経ったか、考える力もなくなっていた。手足の感覚は、既になかった。

暫くして、私は自分の足音の他に、もう一つ足音がすることに気付いた。ヒールが床を蹴るカツンカツンという音。そしてそれは、ゆっくりとこちらへ近付いていた。

私はもはやドライアイスの煙のように冷たい廊下をひたすら走った。全身が余すところなく痛かったが、それでも足だけは止めなかった。どれだけ走っても、足音との距離は広がらなかった。しかしもう限界であった。堪えきれずに咳き込むと、押さえた手の平に赤黒い血がぺっとりとついた。そのままがっくりと膝をつく。息切れと冷えでぼんやりとした頭で、もう、どうなってもいいと思った。もう走れない。そういえば、此処へは何をしに来ていたのだっけ。

足音が、すぐ後ろにまで来ていた。背中が凍るように寒かったのに、汗が止まらなかった。そして、「それ」は軽く私の肩を叩き、私の名前を呼んだ。

「有岡さん」

私はゆっくりと振り返り、「それ」を見た。その声には聞き覚えがあった。「それ」――否、「彼女」は、紛れもなく、情報メディア基礎Ⅱの担当教授である池山みぞのであった。

「は、い」

ずっと走っていたせいで喉がからからで、掠れた声で返事して私は咳き込んだ。えずく私を慈愛に満ちた目で見ながら、池山は至極穏やかな声で言った。

「問3の答えが間違っています。やり直して、今日中に再提出してください」

嫌だ、嫌だ、嫌だ――そう喚いたのは、心の中だっただろうか、それとも口に出していたのか。どちらであったかは、知るよしもなかった。すぐに池山も、冷たく暗い廊下も消え去り、気付けば私は自室のベッドの上に寝ていた。

「全て夢だったのか」

あの暗くて冷たい、終わりのない研究室塔も、異様に足の速い池山も。

――いや、待て。

今日はよく晴れた土曜日だ。そして、私は、今日が提出期限の課題を、研究室に提出に行かなければならなかった。