推しの話

最近よく推しのことを思い出すので書く。

 

「推し」というのは(私の中では)固有名詞で、学生時代の最後のアルバイト先の社員さんを指す。当時26歳くらいで、黒縁の眼鏡がよく似合う、淡泊で少し不愛想だけど、とても頭が良くて根はやさしい人だった。

推しと出会ったのは大学3年の夏。私がそのアルバイトにエントリーした時、折り返して電話をくれたのが推しだった。あと、面接をしてくれたのも推しだった。

流石に面接の時に惚れた、というわけではないことは覚えているが、推しのことを好きになった時期やきっかけは、もう忘れてしまった。眼鏡かけてスーツ着てるとそれだけで10割増しで魅力的に見えてしまう病気に罹っているのでとにかく推しの見た目が好みだった。それで、気付いた時にはいつも目で追うようになっていた。推しが出勤していると、それだけで背筋がしゃんと伸びて、お客様対応をする声も明るく柔らかくなっていた、ような気がする。

 

推しへの思いが「好き」だけでなく「尊敬」も入るようになったのは、私が研修を終えて2か月くらい経った頃。ある日、私は初めてクレーマー(という言い方は良くないが)のお客様にあたってしまった。

それまでも当たりが強いお客様には何度か当たっていて、それらは淡々と受け流せていた(若いのに凄いね、とよく言ってもらえていたが、生育環境によるところが大きかったのだと思う)のだが、その日は耐えられなかった。対応中はなんとか顔と声を保っていたが、終わった瞬間にその場で泣き崩れてしまった。

周りの先輩はひたすら優しく慰めてくれて「ゆきのちゃんは悪くないよ」「大変だったね」などと言葉を掛けてくれたのだけど、推しだけはフォローするだけでなく私の対応の改善点まできちんとFBしてくれた。こういう言い方ができればもっとよかったね、とか。それで推しのことを上司?レポートライン?として尊敬するようになった。

人にきちんとFB(正のFBも、負のFBも)できるって大事なことだと思っていて、今の会社は特にそういう文化が強いし、そのバイト先もFeedback is a giftみたいな概念はあった。でもそれを実行できている人はそんなに多くなかったと思う。結構、人間関係面倒な環境だったし、みんなモヤモヤ考えていても本人に直接言うことはあまり無かった。

推しも相手を見てコミュニケーションをとる人だったけど、特に私相手にはきちんとそういうことを伝えてくれたから(私もFBください、ちゃんと成長したいですと言っていたし)、そこを尊敬していたな。ずっと。

誰かの上に立つなら推しのような人でありたい。とその時からかなり長い間思っていた。(流石に今はプロジェクトの先輩数人がよりリアルなロールモデルになっているけど、必要条件として推しのような要素を持つことは今でも望んでいる)

 

推しと2回ほど飲んだことがある。1回はなんと、サシ。サシって!おい!好きな人をサシ飲みに誘えるような骨のある時代が私にもあったんですねー。(遠い目)

その時の話で印象に残っていたのは期待値コントロールの話だった。推しは「周囲からの期待値は自分の実力の80%くらいになるようにしておき、容易に期待値を満たしたり超えたりできるようにする」と言っていた。なるほどなと思った。

私は承認欲求の塊で他者からの承認のためならいくらでも身を削るので、どちらかというと「自分の実力の120%くらいを宣言して周囲からの期待値とし、それを裏切らないために死に物狂いで頑張る」タイプ(120%なのか110%なのか、実際にそれを満たせるかは時と場合による)。当時からそうで、推しもそれは認識していて、「偉いなと思うけど、疲れない?」と言われた記憶がある。というかこれ今でもよく人に言われるな。変わってないな。

推しは他者からの期待を裏切らないことを至上命題としていたんですね。一方私はまず期待値を上げないと自分を見てもらえない、みたいな恐怖感があり、とにかく自分を見てもらいたいのでそういうことになっているんだと思うんだよな。私のやり方は確かに疲れるし、リスクあるし、要領いいか悪いかで言ったら悪いんだと思う。恐怖ベースで動くってよくないし。それで推しのそういう戦略的な所は、エエな(小並感)と思った。あと、推しは自分に注目されなくても別に構わない、と言っていて強いなと思った。

 

推しは私の扱いが上手かった、と思う。人をよく見ている人だった。

よく私に大量の仕事を渡して、私が頑張って終わらせると「流石だね」と、大してありがたくもなさそうに淡々と褒めてくれた。そんなところが最高にツボだった。ちなみにこれを先輩バイトのお姉さんに言ったら「ゆきのちゃん趣味悪すぎ」「ていうか(推し)さんひどいじゃん」とさんざんな言われようだった。

 

推しとの最後の思い出は、私の退職の日。3月の終わりごろはまだ寒くて、空気がひんやりと張りつめていた。

朝、バイト先の入っているビルに入ると、エレベーターホールには推し一人だけがいた。冷たくて静かなエレベーターホールに、推しと私だけがいて、時間が止まっているようだった。

エレベーターに乗り込んで、推しと目を合わせて少し会釈した。「実は今日が最終出勤日なんです」とか、何か話そうと思ったのだけど、何も言葉が出なくて、そのままオフィスのあるフロアに着いて分かれた。出勤時に推しと二人きりになるなんてそれまで一度もなかったので、あの時間は幻のようだったと今も思う。

最後退勤する時、推しにも挨拶をした。「よく頑張っていたと思うよ。研修の飲み込みも早かったし、数字も一番だったし。本当にお疲れ様でした」って言ってくれて、今ここで死んでしまえたらどんなに良いだろうな、と思った。

推しはものすごく淡泊で不愛想で、他の人と違って私が実績上げてもあまり褒めてくれなくて、でもレポートライン?として(先輩ではないが上司とはまた少し違うんだよな)私をきちんと見てくれていて、最後にそういう言葉をかけてくれたんだよね。やっぱり確かにこの人のことを好きだった、と最後の日に確信してしまった。

 

推しとの思い出はこれで終わり。本当は先輩が私の送別会を企画してくれていて、そこで一度だけでも再会できるはずだったんだけど、情勢が落ち着かないうちに時間が経ちすぎてしまった。

LINEは知っているけどきっともう二度と連絡を取る事はないのだろうな。あと、推しはあくまで推しであって、そういう風に連絡を取るのはなんか違うと思う。

でも、私は環境が変わっても必ずそこに誰か物凄く尊敬できる人がいて、その人を目指して頑張れてしまう人間だから、また推し(not固有名詞)を作って頑張れば、推し(固有名詞)との思い出って消えたりしないよね、と思ったりもしている。

 

おしまい。