輪るピングドラム第15駅「世界を救う者」感想

ここでOPが変わります。「ノルニル」も良かったけど、私は「少年よ我に帰れ」の方がより好き!少しダークな感じで、後半戦の雰囲気によく合っている。

 

Ep.14に引き続きゆり過去編ということで、ゆりと荻野目桃果の出会いが語られます。そして桃果の容姿もようやく解禁!(だよね?)

桃果の容姿解禁により、Ep.13Bパートで空の孔分室を駆け回っていた眞悧の運命の人が桃果であったことがここで明かされます。つまり、この回の最後でゆりが言っているように、桃果は単に事件の一被害者として巻き込まれて亡くなったのではなく、何かしら特別な形で事件の渦中にいたことが分かります。桃果はあの事件の中で、運命の乗り換えをし、その代償として消えたんですね。Op映像にもそれが示されています。同時に、その日記を引き継いで燃えている苹果がどのような運命を辿るかもOp映像で示唆されているんですね。作り込み丁寧すぎてため息出る。。

 

醜いまま誰にも愛されずに生きるくらいなら、死んで白鳥になった方がマシ!

ここ見るたびにフフッとなってしまう。醜いまま生きるくらいなら死んだ方がマシ、って超わかるーー。ゆりは美容垢っぽいですね。

最近思うんだけど、というか先日先輩と話してたことでもあるので、どこまでがあの日に話した事であの後わたしが考えた差分が何なのかもはや曖昧になっているのですが、

「醜いから死にたいわ」って言ってる人ってたぶん醜さのコンプレックスが解消されても死にたいって言うんだと思うんだよね(自己紹介感…)。美醜、学歴、所属、仕事での評価…etc.といった要素に関わらず自分の存在を肯定できないと、どうあっても自分を肯定できない、と思う。

そういう根本的な(基本的な?)自己肯定感を持ち合わせてない人が自分を愛するためには鏡が必要なんだよね。つまり、ゆりの場合で言うと、桃果がそれにあたりますが、桃果がそのままのゆりを愛してくれたから、ゆりは桃果を愛したし、桃果に愛される自分のことも愛すことができた。同様に、xx(属性)がyy(値)だから自分は無価値なのである、みたいな思考に陥るしかない人は、誰かと愛し合うことによって自分を愛することができるんだよね、多分。

 

場面変わって、陽毬と冠葉と眞悧先生。自分の編んだマフラーをヒバリと光莉がつけているのを見て喜ぶ姿は年相応に見えますね。むしろ14歳(推定)という年齢から考えると少し幼いのかも・・?と思わなくもないが、思い返すと自分も当時はこのくらいだったような気もしないでもない。

何か意味深なことを言う眞悧先生。

「ねえ、家族というのは一種の幻想。呪いのようなものだとは思わない?」

「だって君は、彼らと家族でいない方が楽なんだろう?」

そんなこと、考えたこともない。と否定する冠葉ですが、Ep.1ラストシーンを思い起こしてみると、そんなわけないだろ!というのが見ている人全員の感想ですね。

でもなんか、こうまで輪るピングドラムを人生のバイブルにしておきながらこんなことを言うのもどうかと思うけど、女性として愛しているが手を出せない人と家族のように暮らすって本当に可能なのかな?私が冠葉の立場であれば、防衛本能から女性として愛することをやめてしまいそうな気がする。というか、実際陽毬はそのようにしたわけですね。自分の本当の気持ちを心の奥底にしまい込んで、見ないふりをした、と。その点、ある程度自覚的に陽毬を女性として愛し続けていた冠葉ってゴイスー。

 

家族は呪いだ、というのは、子どもの立場であるから言えることだと思うのだけど、どうなんだろう。幻想だね、くらいなら、誰の立場でも言えるけど。

冠葉は自分から高倉冠葉になることを選んだわけではなかったから、高倉家という共同体を(あるいは夏芽家という血を)呪いである、と言う権利がある。と思う。一方、たぶん晶馬と陽毬にはその権利はない(彼らは自分で選んでいる)し、実際言ってないし、たぶん思っていない。だから自分で選ぶって大事よね。とか言いつつ、一番最初に得る家族は、自分で選ばないで与えられるものなので、難しいよね。Ep.1冒頭かどこかでそういうのあったよね。「裕福な家庭に生まれる子ども、美しい母親から生まれる子ども、飢餓や戦争の真っ只中に生まれる子ども…」って。

今書いてて思ったんだけど、寧ろ、だからこそ、自発的に誰かを愛し、人生を分け合うことを願い、家族になる(家族を作る)、ということが必要なのだ、というメッセージがあったのかもしれない。冠葉も、晶馬も、陽毬も、ゆりも、田蕗も、実親によって構成された家族には恵まれていないが、自分で選んで人を愛し家族という共同体を構築しているし、それが結果的にほんとうのさいわいに繋がっているわけじゃない。そういうことだったのかも。輪るピングドラムにおける「家族」って。

「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉が意味するのは、「僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ」であり、「愛してる」であり、もっと平易な言葉にすると「一緒に生きてください、家族になってください」なんだよね。

 

なんか最終回感想みたいなことを書いてしまった。

 

次回は第16駅。