輪るピングドラム第20話「選んでくれてありがとう」感想

陽毬が高倉陽毬になった話。

 

「思い出したよ。晶ちゃんが、私の運命の人」

夏目真砂子の襲撃から一夜明けて、何事もなかったかのような場面を取り戻した高倉家。しかし陽毬が「晶ちゃんのお味噌汁は、お母さんと同じ味がするね」と穏やかに笑うのに対し、晶馬はいつになく厳しい冷たい返しをするのでした。

高倉剣山・千江美に対して一番厳しい態度を取るのは晶馬、なんだよね。これはEp.19~で判明していくように、実際のところ高倉夫妻の実子であったのは晶馬だけだったので、晶馬は実両親に対しての気持ちである分より強く許しがたかった、というところがあるのかもしれない。

 

話変わって、眞悧先生の診察室。この場面ね、好きなんですよね。示唆的。

「さて、今日はある恋のお話です。追えば逃げ、逃げれば終われる。あれほどうまくいっていたのにある日突然そっけない。逃げられた!さて、君ならどうする?」

「私だったら、追いかけない。」

「なぜ?」

「疲れちゃうし。」

「つまり君は、逃げる役目しかやらないと宣言するわけだ。
(中略)両方が逃げるなら、それはお互いが、私からは近付きませんよと相手に言うのと同じ、ということさ。
(中略)その恋は実らない。」

「それでいいよ。私、恋なんかしないもん。」

相手から逃げられて果実をもらえないのであれば初めから追いかけない、と静かに拒絶する陽毬。わかるなあ。

ただ眞悧先生の言っていることも真理ではあって、自分が追わないことには恋はやはり実らないと思う。

「君は果実を手に入れたいわけだ。キスをするだけじゃ、ダメなんだね。」

「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実がないのに、キスばかりしていると、私は空っぽになっちゃう。
(中略)空っぽになったら、ポイされるんだよ。
(中略)そうなっちゃったら、心が凍り付いて、息もできなくなっちゃう。」

陽毬がそう語るのは勿論、自分がかつて消費され、捨てられ、凍ってしまいそうになったから。刹那的な愛(愛ではないか)を与えられ、それが目減りした時にあっさりと捨てられた時の悲しさや惨めさを体で記憶しているから、だね。

陽毬は基本天真爛漫な雰囲気だが、こうして随所に見せる冷たさというか達観した感じが、どうしようもなく悲しくて好きだ。

 

「陽毬は、僕が家族に選んだんだ。」

 

季節に合わない服装、室内履きと思しきスリッパ。晶馬に見つけられた時の陽毬は明らかに母親からもう見捨てられていることが分かる。本人もどこかでそれをはっきりと分かっていて、それでも母親を待つ以外できなかったのだね。愛されなくなることの恐怖から一度は晶馬の関心を拒絶する。

「私の人生に、果実なんてないから。」(最も好きな台詞の一つ)

が、後にサンちゃんと名付けた子猫を二人で育むことを通して、徐々に晶馬に心を寄せていく。

温かな日々が続くと思われたが、サンちゃんがゴミ収集車に回収されたことを機にそれは終わる。陽毬は心の支えになるようなものを一つ失ってしまって、というより、やはり選ばれない者は死ぬのだということを強く実感してしまって、自分もまた子どもブロイラーに行ってしまったのだろうね。

「初めて声をかけてくれた時、本当はすごくうれしかった。あれからね、私は晶ちゃんを待つことにしたんだ。ママは帰ってこなかったけど、私は晶ちゃんを待つことができたから、寂しくなかったよ。待つってことは、つらくないことだってはじめて思ったんだ。」

「待つってことは、つらくないことだって」の部分ってこの後、Ep.24Bパートで冠葉が陽毬のベッドについて振り返る場面と繋がっていると思うのよ。たぶん冠葉と晶馬が外に出て陽毬がそれを待つ、ということが比較的多くあったはずで、そんな風に誰かを待つこと、待つ場所があること、って陽毬にとっては決して当たり前ではなかったのだよね。

 

陽毬の「見つけてくれてありがとう」という気持ちに似たものを自分も強く感じているなあ。誰から捨てられたわけでもないのだけど。

 

晶馬は陽毬を高倉家に巻き込んで罰を負わせていることを強く後悔しているが、陽毬は多分それも含めて選択しているのだよ。愛を分け合いたい、と共に罰であっても分け合いたい、とはっきり言っているからね。罰を負わせる側に立っている時、しばしばそのことを意識できないがちだけど、一緒にいることを選択しているということはやっぱりそういうことだと(少なくとも私は)思う。罰であっても分けてほしい。(と共に、相手を自分の人生に引き入れることは、自分の罰につき合わせることもあり得るんだよね、という負い目も感じていて、その負い目を押してでも一緒にいてほしいと願ってしまうエゴが愛なんだと思う。)