輪るピングドラム第9駅「氷の世界」感想

※この記事はネタバレを含みませんが、第1駅~24駅を何度も通しで見ている人間が書いています。

 

Ep.8ラストで晶馬が撥ねられた衝撃展開から一転、時間軸はEp.1に戻る。家族3人で水族館に出かけたシーンを、陽毬視点で追っていく。

ペンギン(サンちゃん)を追って地下深くの水族館に辿り着いた陽毬は『かえるくん、東京を救う』という本を探して、図書館の片隅にある不思議な部屋に迷い込む。

この不思議な部屋、すなわちそらの孔分室への扉がカチャカチャと開く時に流れている曲は、モーツァルトピアノソナタ11番。静かでなんともいえないメロディが、この回の雰囲気と相まってとても好きだ。

この部屋の名前が"そらの孔"分室、というところでまたしても宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』との繋がりが示唆されているのだよね。

 

ここまでの話の中心はどちらかといえば苹果にあったけれど、このそらの孔分室のシーンで初めて詳しく陽毬の過去が語られる。

ヒバリ・光莉とアイドルになる夢を抱いていた話、母親に怪我をさせた話…どれも年相応の女の子らしい、可愛らしいエピソードだが、本題は一番最後、陽毬が最後に学校へ行った日の話。

一人帰宅する陽毬を窓から大勢の児童が見ていて、誰かから消しゴムが投げつけられる。親友2人も窓の向こう側にいるが、助けてはくれない。その日を最後に陽毬は学校へ行けなくなり、数年後ダブルHとしてデビューしたヒバリ・光莉を、一人自宅のテレビからぼんやりと眺めることになる。

 

陽毬ちゃんってEp.1からなんとなく天真爛漫そうな感じの裏に暗さがあった(人生全般に対してあまり期待や執着をしていない感じ)と思っているんだけど、その要因の一つにこのような過去があったということが分かるわけですよね。

陽毬ちゃんが優しく、明るく、暖かく、年の割に自分の運命に対して達観しているのは、このような過去からそもそも色々なものを既に諦めていて、自分の手の届く範囲の幸せを守り慈しむことのみをスコープとしているからなんだと思っています。

「実は彼女たちを恨んでいたりして。」

「恨んでなんかいない。だってあの時、二人は私の本当の友達だったから。今だって心から二人を応援してる。」

「君は素敵な女の子だね。でもそれなら、どうしてそんな心映えの良い女の子が、あんなことになってしまったんだろうね。」

「分からない。」

「君はそれを探しに来たんじゃなかったのかい。」

「分からない…いいえ、分からないわ。」

この会話も、陽毬のその無欲な感じがよく表れていると思う。ヒバリと光莉に対し、「あの時(アイドルオーディションを目指して頑張っていた時や、自分の母親のために鯉を捕獲しようと提案してくれたり、教師に見つかった時にかばってくれたりした時)に本当の友達であった」以上のことを求めていない――あの時のピュアな思いをエネルギーにして今でも二人を応援している、というのは、なんというか求めなさすぎだよなー。

もう求めてもしょうがないという思いがあってこそ、求めることをやめるのよね。と思うとこれって切ないよね。

 

ちなみにこの会話、眞悧先生視点で見ると、陽毬に「ヒバリと光莉を恨まないのか?」と誘いかけている。。悪い大人だなー。

林檎で連想するアダムとイブの話があるが、眞悧先生ってあの話に出てくる蛇みたいだよね。雰囲気が。

 

そして、そらの孔分室最後のシーン。陽毬は幼い頃に、誰かと運命の果実を分け合った、ということを示されている。とても大切な、陽毬の運命の人。

この時点で、運命の果実を分け合った場所がどこなのか、相手が誰なのか、そして運命の果実を分け合うとはどういうことなのか、はまったく語られない。ドキドキよね。このドキドキを体験するために、一度でいいから輪るピングドラムの記憶を完全に消去してもう一度見たいなあと思うよ。

 

という事で、Ep.9をもう一度振り返ってみてつらつらと感想を書いてみたが、改めてこの回は全エピソードの中でもキーとなる情報が多い。

そして、この話を境にこのアニメの雰囲気が少し暗くなっていくのよね。Ep.10もなんか禍々しいし。Ep.8までは正直「この話、どこへ向かっているんだろう」という感想を抱いていたのだけど、Ep.9以降は「まったく読めないけど、何かしらに向かっていることだけはわかる」という状態になって、目を離せなくなった。まどマギで言うところの3話みたいなものだと思う。(しっくりこなくても9話まで耐えて、はなかなか言いづらいけど)

 

次回はEp.10「だって好きだから」をトリガに、この物語における「好き」と「愛してる」の話を書いていこうと思います(備忘)。